上海・南京戦で日本軍が最も悩まされたのは支那独特の便衣兵である。 第二次上海事変(1937年8月) 南京攻略(1937年12月) 彼らは、戦い不利と見るや軍服を平服(便衣)に着替えて一般市民を装い、武器を隠し持って市中に潜伏し、すきを見て日本軍を攻撃するのである。 このような卑劣な戦闘方法を事とする便衣隊は、当然のことながら交戦法規から見ると交戦者としての資格を有してはいないのである。 ハーグ陸戦条約 便衣隊は交戦者の資格なくして害敵行為を行うのであるから、明らかに交戦法規違反である。戦時国際法によれば、かくのごとき便衣隊に対して、原稿犯罪の場合は正当防衛として直ちにこれを殺害し、または捕えて戦時重罪犯に問うても差し支えなし、としている。 日本軍が安全区に潜伏する便衣兵を狩り出して処刑したとしても、戦時国際法から見て正当な行為なのであるが、支那側は軍服を脱げば兵士も市民であるという恐るべき欺瞞の言を弄して、これを”無辜の市民”の虐殺であると主張した。軍服を脱いだ兵は兵にあらず - 子供騙しに等しいこのような詭弁の上に「南京大虐殺」の神話がいつかしら作りあげられていった。 虚構の「南京大虐殺」 「便衣隊」以外のこの事変における支那軍の特徴的な戦いとして「督戦隊」「清野戦術」が挙げられる。 上海戦・南京戦で支那軍は、この異常かつ非人道的な部隊を第一線の後方に配置したため、退路を断たれた支那兵は命を捨てて頑強に抵抗せざるを得ず、このため極めて悲惨な状況が展開した。 督戦隊 日本軍に追われ上海、南京、重慶へと逃げた支那軍は退却の際、何もかも焼き払い、同胞も平気で犠牲にした。そのため、退路周辺はたちまち荒廃に帰した。日本軍は極力戦時国際法を遵守していたが、支那軍はこれを正反対にして「日本軍が暴虐行為をしている」と世界に向かって宣伝しまくった。赤ん坊を廃墟に置いて撮ったヤラセ写真はあまりに有名である。 清野戦術 参考文献:大東亜戦争への道 (中村 粲) |
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