図らずも盧溝橋事件によって対支交戦状態に入った日本は、速やかに戦闘を終結して東洋平和を実現せんとの念願より、様々な対支和平工作を事変当初から試みた。実に昭和20年終戦直前に至るまで様々な形の対支和平の努力が試みられては挫折していった。 船津和平工作(昭和12年[1937]8月)の後、上海戦から南京戦への展開と並行して行われたのがトラウトマン工作である。 日本政府と軍部の首脳は早急に戦争を終えたいとの気持ちから、第三国の公正な斡旋の申し出があった場合は船津和平工作案の範囲内で受諾するとの方針を外務省と陸海軍三者間で決め、広田外相より10月27日、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアに対して、日支交渉のための第三国の好意的斡旋を受諾する用意のあることを伝えた。 和平の仲介は結局ドイツに依頼することになり、11月2日(ブリュッセル会議前日)、日本は正式に日本の和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使に通知した。条件は船津和平工作案と同じで非常に寛大なものだった。 この報告を受けたドイツ政府も、日本側の和平条件を妥当なものと判断し、11月5日、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に日本側の和平条件を通知した。 しかし、蒋介石は、国際連盟に訴えて開かれることになったブリュッセルでの九ヶ国条約国会議に期待し、アメリカやイギリスに頼って日本を牽制しようという気持ちが強いため、日本の提案に乗ってこなかった。 ブリュッセル会議(1937年11月) だが日本はなお和平への望みをあきらめず、ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田外相はグルー米国大使に「日本軍の上海での作戦は順調だがこれ以上支那軍を追撃する必要はない。この時期に平和解決を図るのは支那自身のためになり、支那政府が南京を放棄するのは非常に愚かなことだ」等を述べ、現在ならば日本の講和条件は穏当なものであるので、アメリカが蒋介石に対し和平交渉に応ずうよう説得してほしいと希望し、もし支那側に和平の意思があるなら、日本は代表者を上海に派遣しようとまで語った。 このときには、日本はまだ大本営も設置しておらず(11月20日設置)、南京攻略も策定されていなかった。このような時期に日本が再度日支和平斡旋の努力をアメリカに求めたことの意味はすこぶる大きい。南京陥落を誰も予想していなかったこの時期ならば、支那側も面子を失うことなく和平交渉できたはずである。しかしアメリカ、イギリスとも積極的な斡旋の努力をしなかった。 やがて南京が陥落する。 南京攻略(1937年12月) 第二次トラウトマン工作(1937年12月) 参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著) |
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