第二次近衛声明「東亜新秩序」建設(1938年11月)

昭和13年(1938年)秋、日支問題は重大な岐路を迎えていた。南支では広東が陥落(10月21日)し、中支では武漢三鎮が陥落(10月26日)したものの、支那事変解決の目途は立たず、日本軍の兵站線は徒に延びるばかりであった。
しかもこの年7、8月には満ソ国境でソ連軍が日本軍を挑発した張鼓峰事件が発生するなど、支那事変の早急解決がいよいよ切実な国家的要請となってきた。

昭和13(1938)年11月3日、近衛文麿首相は「第二次近衛声明」ともいわれる声明を発表した。
この声明は「東亜新秩序」を謳ったもので、「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」が支那出兵の目的であると述べ、「新秩序」とは支那事変後の東アジアのあり方として、日本・満洲・支那3国の提携により東亜に防共、経済統合を実現しようとすることであるとした。「東亜新秩序」という言葉が使われた最初であり、のちの「大東亜共栄圏」構想の出発点である。
さらに声明は「国民政府といえども従来の指導政策を変更し、その人的構成を変更して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するもあらず」と述べ、新秩序建設への支那国民政府の参加を呼びかけたのであり、実はこの部分こそ、第二次近衛声明の主眼点なのであった。つまり、この声明は1月5日(10ヶ月前)の第一次近衛声明「国民政府を相手にせず」を修正するものだったのだ。

  第一次近衛声明「国民政府を相手にせず」(1938年1月)

世界列強がブロック経済体制を確立している中、日・満・支の経済ブロック建設は日本にとって自存自衛の策だった。

  ブロック経済化(1930年代)

この発想に対し、支那大陸に権益を持っていたイギリスや、さらなる権益を獲得しようと企むアメリカは反発した。
アメリカはこの直後から蒋介石の重慶政府を物心ともに公然と支援する一方、昭和14(1939)年7月には、日米通商航海条約の廃棄を通告、日本に対する敵視を強めた。

  日米通商修好航海条約破棄(1940年1月)
  アメリカの反日政策(「東亜新秩序」〜日米開戦)


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参考文献 歴史年表