アメリカは支那事変が門戸開放主義に違反すると日本を非難しながら、実はアメリカの対支那貿易は事変にもかかわらず増え続け、また一方、日本は満州事変以来、アメリカにとってはイギリス、カナダに次ぐ貿易上の顧客なのだった。 それゆえ、通商上からは支那事変は決して日米開戦の十分な理由にはなり得なかった。アメリカ商工業界が禁輸などの強硬な対日経済圧迫に消極的だったのは当然だった。 アメリカの反日世論形成に努力したのは支那で布教するプロテスタント宣教師とその関係団体だった。彼らの支那びいきと日本非難が対日経済制裁を引き出す世論環境を用意した。 さらに昭和15年7月から陸軍長官となるヘンリー・スチムソン(満州事変でスティムソン・ドクトリンを唱えたあの国務長官)が対日製剤報復を主張する有力な圧力団体の長であったことは両国の不幸な前途を予兆するものであった。 参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著) |
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