南京攻略前に南京から逃げ出した蒋介石は最初は漢口、そして重慶に首都を定め、そこに逃げ込んだ。 重慶は山奥の都市で機関銃や大砲を作る工場もない。日本軍に商工業の拠点すべてを占領され、奥地の重慶に撤退した蒋介石は、普通なら武器弾薬の調達ができず、講和に望む以外なかった。また、本来ならば汪兆銘の南京政府に対抗し続けるわけがない。 汪兆銘、南京政府樹立(1940年) しかしながら、この蒋介石の重慶政府にアメリカ、イギリス、ソ連(フランスもドイツに降伏するまで)が莫大な援助を行い続けた。巨額な借款が供与され、援蒋ルートと呼ばれる道路や鉄道が開かれ、重慶には膨大な兵器弾薬が運び込まれていた。 ソ連は陸続きで共産ゲリラを助け、飛行機も送り込んだ。 イギリスはインド・ビルマルートを通じて援助した。 アメリカは空軍部隊まで送り込んだ。 いずれも中立国にあるまじき行為だった。 特にアメリカの援助が崩壊寸前の蒋介石に抗戦を続けさせ、日本軍を泥沼に引きずり込んだ。 日本のインドシナ進駐も、この蒋援ルート(蒋介石の援助ルート)を止めるためであった。海南島の占領も同じ目的であった。 北部仏印進駐(1940年9月) |
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