汪兆銘、上海へ脱出(1939年5月) 汪兆銘はハノイで暗殺されそうになり、また、雲南、貴州、四川などの諸省の軍隊が動かずに目論見が外れたため、、上海で新政府樹立運動に乗り出した。 当時、日本軍占領下の北支(おおむね河北、山東、山西省)には中華民国臨時政府、中支(おおむね江蘇、安徽省)には中華民国維新政府が存在したが、汪兆銘はこの両政権と協議を遂げた上、昭和15年(1940)3月30日、日本との「善隣友好、共同防共、経済提携」を掲げ、南京に中華民国国民政府(新政府)を樹立した。新政府の創設ではなく国民政府の「南京への遷都」の形をとり、国旗も重慶国民政府と同じ「青天白日旗」に「和平・反共・建国」の六文字を記した黄布をつけたものとした。 中華民国臨時・維新両政府はこの中央政府に吸収された。もちろん日本は汪兆銘政権を支持したが、汪兆銘も日本政府も、蒋介石を主席として迎える余地を残すために汪兆銘を主席ではなく主席代理とし、重慶政府との和平工作の努力を続けた。新政府は北は万里の長城から南は広東、広西に至る支那本部(中原)を統治することになった。 新政府が樹立されたその日、アメリカの国務長官・コーデル・ハルは汪政権樹立を非難し、アメリカは依然として重慶政府を支那政府と認める旨の声明を発表した。 汪兆銘政権樹立非難(1940年3月30日) 重慶国民政府との交渉は成立せず、日本は汪兆銘政権を正式に承認することになる。 日華基本条約(1940年11月) 日本にとっても汪兆銘にとっても大きな誤算は、日本はアメリカと戦争をしなくてはならなくなったことである。アメリカとの戦争がなければ、南京政府のみが支那に残り、そのとき長く続いた日本と支那の戦争が終わっていた。アメリカとの戦争に日本が負けたため南京政権がつぶれ、日本が続けてきた和平の努力が無駄になってしまった。そして、コミンテルンの目論見どおり、支那は共産党のものとなり今日に至っている。 汪兆銘南京政府解消(1945年8月) |
参考文献 | 歴史年表 |