日華基本条約(1940年11月)


  汪兆銘南京政府樹立(1940年3月)

日本は汪兆銘・南京国民政府成立前後から、重慶政府との和平工作の努力をひそかに継続していた。
参謀本部及び支那派遣軍総司令部は宋子良と自称する人物との接触に望みをつなぎ、昭和15年(1940)2月からこの男を通じて日華和平工作を進めたが、成果は思わしくなく、東条新陸相の反対もあって9月に打ち切った(宋子良は偽物だった)。
7月に第二次近衛内閣が成立すると、外相に就任した松岡洋右は、従来軍民によってバラバラに行われてきた対重慶和平工作を外務省の統制下におくこととし、この方針は11月13日の御前会議で決定された「支那事変処理要綱」で明文化された。
ここにおいて、11月末までに対重慶和平工作が成功しない場合は、日本は汪兆銘政権を中華民国の正式政府として承認することとなった
松岡の和平工作は浙江財閥の巨頭銭永銘(せんえいめい)を通じて行われた。
このように日本は重慶との和平交渉の努力を行っていたのだ。
11月28日の大本営政府連絡懇親会で松岡外相自ら、重慶からの汪政権承認延期申し入れは謀略の範囲を出ないと考えられると説明し、予定通り汪政権を承認することを決定した。
そして、昭和15年(1940)11月30日、汪の南京国民政府との間に「日華基本条約」を調印して、同政府を正式に承認した。
重慶の蒋介石政権と合流する場合を考慮して国民政府主席代理だった汪は正式に主席に就任した。
同時にこの日、「日満華共同宣言」が発表された。

  日満華共同宣言(1940年11月)


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参考文献 歴史年表