甲案(1941年10月)

首相に就任した東條は議論を
  1. 戦争を避け、最後まで現状で行く臥薪嘗胆
  2. 直ちに開戦を決意し、その準備をする
  3. やむを得ざる場合は開戦する決意の下に外交交渉を併行する
の三案にまとめ、11月1日午前から2日未明にかけて延々17時間に及ぶ白熱の討議を行った。その結果、第一案は国家を自滅に導くものとして採用されず、「主戦」の第二案、「和戦両様」の第三案の選択となったが、交渉打ち切り、戦争決意を主張する参謀本部に対して、東郷外相は交渉の余地のある間に戦争に突入するのは国民に対して相済まぬとして反対し、東條首相もまた外相のこの意見を支持したこともあり、参謀本部の主戦論は他の全員の反対を受けて成立しなかった。
こうして第三案の論議に入り、外交交渉を打ち切って作戦に転換する期日をいつにするかの問題を論ずることになった。
参謀本部側が「外交は作戦を妨害せぬこと」と主張したのに対し、東條首相と東郷外相は「外交と作戦は併行してやるのであるから、外交が成功したら戦争発起をやめること」を強く求めて反論し、統帥部と対立した。結局、外交交渉は11月30日夜12時までと決定された。首相と陸相を兼摂した東條ですら、統帥部の意向に逆らうことはできなかった。
ここにおいて、この期限に至るまでの交渉案として東郷外相が提示したのが、有名な甲案と乙案である。

甲案は日米交渉中の次の4つの争点につき、新たに日本の譲歩を示している
  1. 通商無差別問題
    従来、日本は南西太平洋、アメリカは太平洋全地域(支那を含む)における通商無差別をそれぞれ主張してきたが、甲案では「無差別原則が全世界に適用されるのであれば太平洋全地域即ち支那においてもその適用を承認する」と譲歩した。要するに、アメリカ伝統の門戸開放主義を全世界に適用するのなら支那への適用を認めよう、と大きく譲ったのである。
  2. 三国同盟
    従来日本がしばしば説明してきたことだが、三国同盟による参戦義務が発生したかどうかの解釈は、あくまで自主的に行う(アメリカが対独参戦したからといって自動的に対米開戦はしない)ことをさらに明らかにすることにした。
  3. 支那撤兵
    支那に派遣した日本軍は事変解決後、北支、蒙疆の一定地域と海南島に防共のため所要期間駐在させるが、他は平和成立と同時に撤兵を開始し、治安確立と共に二年以内に撤兵を完了する。「所要期間」につきアメリカより質問があれば「おおむね25年」と答えること。これは支那駐兵の地点と期間を明らかにした点で重大な譲歩であり、妥結の意思を立証するものだった。
  4. 仏印撤兵
    仏印派遣の日本軍は支那事変の解決あるいは公正な極東平和の確立を共に直ちに撤退する。
アメリカ側の希望をできるだけ取り入れた最終的譲歩案で、支那における通商無差別、支那及び仏印よりの撤兵の三点について譲歩した案であった。

乙案

12月2日早晩にまで及んだ連絡会議は、ここに甲乙両案と「帝国国策遂行要領」を決定して散会した。
9月6日御前会議決定は陛下の御掟通り「白紙還元」され、新しい交渉案がここに生まれた。

11月5日御前会議が開かれ、「帝国国策遂行要領」と甲・乙両案が最終的に決定され、この案による対米交渉が開始されることになった。

参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著)


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参考文献 歴史年表