昭和20(1945)年7月26日に、実質的にアメリカが作り、そしてアメリカだけが署名したポツダム宣言が発表され、日本政府に7月27日、この宣言が届いた。 日本はソ連に仲介を依頼しており、ソ連からの仲介の返事を待っていたため、発表されたポツダム宣言を黙殺した。実はそのときソ連は日ソ中立条約を無視して対日参戦を決定しており、日本は来るはずもない返事を待っていたのだ。 しかし、8月6日に広島に、8月9日に長崎にそれぞれ原爆が投下され、同じ日には日ソ中立条約を一方的に侵犯してソ連軍が満州に進攻したため、8月10日に「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件にポツダム宣言を受諾する回答を発した。 原爆投下 日ソ中立条約破棄 ソ連の満洲での略奪、虐殺 8月12日、アメリカの国務長官バーンズより回答があり、「日本国の政治形態は日本国民の意思で決まる。国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に"subject to"する」とあった("subject to"とは「占領下におかれる」「隷属する」という意味)。この語が「制限下に置かれる」なのか「隷属する」なのかの解釈をめぐって紛糾したが、8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達した。 そして、8月15日、ラジオの玉音放送で日本の降伏を国民に知らせた。そして9月2日の降伏文書調印となる。 「ポツダム宣言」は日本国軍隊の無条件降伏であり日本国の無条件降伏ではない。ポツダム宣言が要求しているのは、「日本国政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを保障すること」である。日本はポツダム宣言の諸条件のもとに降伏したのであって、日本の「主権」まで占領軍に差し出したわけではない。 しかし、降伏文書にもバーンズが8月12日に回答したのと同じ「国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に"subject to"があり、日本が「無条件降伏」したかのような誤った考えを日本国民に信じ込ませた。 日本は一切の反論を許されず、あたかも「無条件降伏」したかのごとく、占領統治に徹底的に服従させられたのである。マッカーサーはまるで日本が無条件降伏したかのような占領政策を行なった。 この重大な部分の原文は以下の通り。
ドイツと日本は降伏の仕方が決定的に異なる。ドイツは最後まで抵抗してヒトラーが自殺し、ゲーリングも戦列を離れ、ついに崩壊してまったく文字通りの無条件降伏をした。ドイツには政府もなく交渉相手がない状態だった。それに対して、日本はまだ連合国が日本本土に上陸しない間に、ポツダム宣言が発せられ、それを受諾したのである。日本は交渉相手として政府が残っていた。これを勘違いしている人が多い(勘違いさせようとしている輩が多い)。 広島原爆投下、ソ連参戦後の8月9日、宮中で最高戦争指導会議が6人の構成員だけで開かれた。黙殺し続けたポツダム宣言を受諾するかどうかが議題であった。高豪外相、米内海相の無条件受諾の意見に対し、阿南陸相、豊田軍令部総長、梅津参謀総長の三人は、@国体維持、A戦争犯罪人の処罰、B武装解除方法、C占領軍進駐問題等四条件付受諾の堅持で、意見がまとまらなかった。 陸軍軍部からすれば、内地にはなお戦わざる300万の軍隊があり、外地には200余万の軍隊があった。戦局も五分五分の互角であり、負けとはみていない。ましてや本土決戦の準備も着々と進んでいる。戦うところ死中に活を求めてこそ勝機があるとも考えている、とした。陸軍上層部は、負けているのは海軍であり、陸軍はまだ戦えると主張し、ポツダム宣言受諾に反対した。 しかし、この会議の最中、長崎に第二の原爆が投下された。受諾の可否の決定については、一人でも異論があれば内閣意見の不統一ということで総辞職という事態をも招きかねない。最も恐れられているのは、もし総辞職にでもなったら、陸軍がそれを機に、戦争継続内閣を組織することである。しかし、宣言受諾は一刻の遅延も許されなかった。 ポツダム宣言を受諾するか否かで意見が分かれた8月9日の御前会議で、鈴木貫太郎首相は「私ではまとめようがありません」といって逃げた。本当はこんなことは絶対にやってはいけないことであった。立憲君主制度では責任は必ず大臣が負わなければならないからだ。ところが、鈴木内閣は決断を放り出して天皇に丸投げした。すると昭和天皇が「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣(東郷茂徳)の意見に賛成である」と述べ、これでポツダム宣言受諾が決まった。 それまで憲法上沈黙を守らざるを得なかった天皇がついに発言したのだ。 その決断は、一般市民を狙った残虐な爆撃をするアメリカ軍を非難しながら、日本人、そして世界全体を深く思う心情ゆえのことだった。 ポツダム宣言受諾は、スイスを通じてアメリカと支那へ、スウェーデンを通じてイギリスとソ連へ通達した。この間、陸軍内部には終戦を阻止する宮城占領事件など、しきりに不穏な動きがあり、クーデター計画の策動もあったが、大事に至らなかった。 阿南陸相は最後の最後まで陸軍を代表して終戦に反対したが、過去一切の計画を捨て、聖断に従って全閣僚とともに詔書に署名した。14日の夜、外務省と首相官邸をまわり丁重に詫び、その深夜、陸相官邸で切腹してはてた。遺書には「一死以て大罪を誤し奉る」とあった。 玉音放送(終戦の詔書。日本人は内容をよく知っておくべき) 日本は無条件降伏したのだから、「戦勝国には何をされても逆らったり文句を言ったりしてはいけない」などという馬鹿が日本人の中にもいるが、それは奴隷根性を刷り込むためのデマである。 完全に洗脳されて、連合国の戦後処理こそが戦後日本の繁栄を築いた出発点だとか、相手国の同意なしには東京裁判の見直しはできない(いかなる条約にも東京裁判を正当化する拘束力はないにもかかわらず)などと主張する毎日新聞は、もはや自虐史観を通り越して奴隷史観に陥っている。 日本のポツダム宣言受諾を知ったニューヨークタイムズは「太平洋の覇権をわが手に」という大見出しの下に「われわれは初めて、ペリー以来の野望を達した。もはや太平洋には邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、我物になったのだ」との記事を載せた。これはアメリカ朝野の長年の願望が叶えられたことに対する偽らざる喜びの声であった。 ポツダム宣言について多くの日本人が忘れていることは、ポツダム宣言受諾がどのようにして行われたかということだ。これは大日本帝国憲法の天皇大権に基づいていた。 第十三条 天皇は戦を宣し和を講し及び諸般の条約を締結す ポツダム宣言はまさにこの大日本帝国憲法第十三条の天皇大権の発動によって受諾したのである。この点が重要だ。日本は、しっかりとした政府があって、その政府が憲法に基づいて、ポツダム宣言の有条件降伏を受諾したということだ。これが戦後の問題を考えるうえで、きわめて重要なことである。そして、こうしたポツダム宣言の延長線上に、東京裁判がある。 東京裁判 |
参考文献 | 歴史年表 |