日ソ中立条約

昭和16(1941)年3月12日に松岡洋右(ようすけ)外相はヨーロッパに出発した。ドイツでヒトラーと外相のリッベンドロップと会見したとき、ドイツはソ連との関係悪化を告白した。ヒトラーらは日独伊ソ(日本・ドイツ・イタリア・ソ連)4国協商案にも日ソ国交改善の斡旋にも関心を示さず、日本のイギリスとの戦争参加を求めた。その後、松岡はイタリアでムッソリーニらと会談。その後、モスクワへ行き、松岡はスターリンと会談を行い、4月13日、日ソ中立条約を結んだ。これは昭和16年4月25日に発効した。

松岡は、日本・ドイツ・イタリア・ソ連の「四ヶ国同盟」によって対アメリカ・イギリス交渉における日本の立場を強化し、支那事変を解決しようと考えていたのだが、ドイツとソ連の関係が修復不可能なほど険悪なことを知り、日本とソ連のみで条約を結んだのだ。

日独伊三国同盟に不安を抱いていた日本人も、日ソ中立条約が加われば安心という印象を抱いた。日本としては石油が禁輸されたときは南方に進出しなければならず、北の心配をしなくて済む点で重要だった。また第三国との戦争になった際には中立を守るという点も都合がよかった。支那事変にソ連が入ってこないと期待した。

スターリンにとって、日本との不可侵条約はドイツとの戦いで極東での戦いのことを考えなくて済む利点があった。ノモンハン事件で日本軍が強いことを知ったソ連は、日本とドイツの結びつき(日独伊三国同盟)に危機感を抱いた。

つまり日本、ソ連双方にとって有意義な条約だったのだが、この2ヵ月後に独ソ戦が勃発してしまい、松岡の思惑は早くも外れてしまった。

  独ソ戦勃発

日ソ中立条約の有効期限は5年昭和21年(1946)4月まで有効であった。ところがソ連は、昭和20年8月8日、一方的にこの条約を無視して日本に攻撃を仕掛けることになる。ソ連は日本との正式な条約を勝手に破棄してアメリカとのヤルタ会談での密約に応じたというわけだ。

  日ソ中立条約一方的破棄
  ヤルタ密約

この日ソ中立条約で、ソ連と日本とは、5年間、決して国家の基本権である戦争権を行使しない、お互いに戦争しない、たとえ自分たちが同盟を結んでいる国が戦争状態に入っても、自分たちは中立を維持して、日本とソ連は決して戦争をしないということを約束したのである。ところが、ソ連がこの約束を破った。しかも、アメリカがソ連をそそのかして、破らせた。アメリカ側としては、刑法でいえば教唆罪、そそのかしの罪に当たることをやったわけだ。

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参考文献 歴史年表