朝鮮戦争(1950〜1953年)

第二次世界大戦後に米ソの冷戦が朝鮮半島で熱い戦争になった。
朝鮮は日本の敗戦後、ソ連が支援する共産党独裁国家北朝鮮と、アメリカが支援する韓国に分断されていた。
1950(昭和25)年1月、アメリカのアチソン国務長官は、ワシントンでの講演において「アメリカの西太平洋における防衛線は、アリューシャン列島から日本列島、沖縄に至る線である」との発言をした。これは韓国はアメリカの防衛圏内ではないという意味になる。
これを聞いたスターリン金日成に韓国を侵略するよう指示した。
そして6月25日、北朝鮮は38度線を越えて韓国に侵入した。共産軍の侵攻を放置すれば朝鮮半島を奪われ日本も危うくなると考えたアメリカ(16カ国からなる国連軍)は韓国に出兵、朝鮮戦争となった。

ソ連と支那(前年に支那共産党が支配して中華人民共和国となっていた)の援助を得て、北朝鮮軍は圧倒的な勢いでアメリカ軍(国連軍)を半島南端の釜山にまで追い詰めた。しかし、アメリカは反撃に出て、朝鮮半島の付け根の鴨緑江まで共産軍を追い返した。しかし、共産軍勢力は満州大東亜戦争後に支那共産党が占領した地域)にあり、毛沢東は100万といわれる大軍を送り込み、ソ連も限りない援助を満州経由で行った。これはたまらないというので、アメリカ軍司令官(米極東軍、国連軍の最高司令官兼務していた)のマッカーサーは、北朝鮮軍の背後にいる支那共産党軍がいる満州への原爆投下と、東シナ海に面する港の封鎖を大統領のトルーマンに要求した。アメリカ国務省は戦争の拡大、支那やソ連を相手に第三次世界大戦への進展を恐れ、強硬な主張を行い続けるマッカーサーを解任した。結局、共産軍が反撃に出て元の38度線で休戦となった。

  ウェーク島でのマッカーサー発言

解任されたマッカーサーは米議会上院軍事外交合同委員会で重大な証言を行なうことになる。

  マッカーサー「自衛戦争」証言

この朝鮮戦争でマッカーサーは明治以降の日本の戦争が祖国防衛戦争(自衛戦争)であったことを悟った。北から強大な勢力が朝鮮半島に下りてきたとき、日本を守ろうと思えば朝鮮半島を守らなければならない。朝鮮半島から敵の勢力を完全に追い払おうと思えば満州に出て行かざるを得ない。こう気づいたマッカーサーは、日本にとって朝鮮半島がいかに重要な土地かがわかったのである。

この戦争での韓国軍は41万もの戦死者を出した。負傷者と行方不明者は42万、非戦闘員の死者が24万人、北朝鮮に連行された者が8万である。
北朝鮮軍と支那(中華人民共和国)軍側は独裁国家のため詳細は不明だが、100万人くらいの戦死者と、それとほぼ同数の戦傷者があったと推定されている。
民間人の死亡者、行方不明者は南北あわせて200万人以上にのぼったといわれる。

この戦争によってアメリカは大東亜戦争での日本の立場が理解できた。こうして、それまでなかなか進まなかった講和条約の交渉が一気に進行、サンフランシスコ講和条約締結となった。
朝鮮戦争がサンフランシスコ講和条約の引き金となったことは明々白々な事実である。
朝鮮戦争のことを多くの人は神風が吹いたと言うが、それは特需があって日本の景気がよくなったからである。しかし、これは上っ面の話であって、重要な点は、アメリカの対日政策が根本的に変わって、二年前に東京裁判で裁いたことなど忘れ、日本はいい国であると認識されたということである。だから、すぐに独立させ、賠償金もとらなかった。サンフランシスコ講和条約は、アメリカのご都合主義によるまったく急な話だった。

「日本の非軍事化」を究極目的に掲げていた占領軍(アメリカ軍)は、その路線を変更して日本の再軍備を求めてきた。すると、日本の共産党や社会党の者たちは新米から反米に変わっていった

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参考文献 歴史年表