靖国神社

明治元年(1868)に、ペリー来航以来勤皇のために倒れた志士を祀るための慰霊祭が起源。戊辰戦争の犠牲者を維新諸藩が「招魂祭」として慰霊し、招魂社が地域の守護神として祀られていたものを国家が引き継いだもの。
明治2年(1869)に九段坂下に創立し、当時は「東京招魂社」と呼んでいたが、明治12年(1897)に「靖国神社」と改名した。

終戦後、GHQ靖国神社を焼き払い、その跡地をドッグレース場にしようと考えたが、ローマ教皇庁のブルノー・ビッテル神父の意見により靖国神社焼却という暴挙を思いとどまった。(靖国神社焼却計画の詳細

昭和21年2月と昭和26年の法令によって靖国神社は宗教法人として登録されざるを得なかった。しかし、そもそも靖国神社は、宗教施設といっても教義も教祖も信者もなく、他の一般の宗教団体とは異なる。
もし国家に殉じた人々を慰霊する施設である靖国神社に、首相が公式に参拝することを憲法が禁止しているのだとすると、その憲法はすぐに改正されるべきである。

昭和26年(1951)9月にサンフランシスコ講和条約が調印され、神道指令などの占領軍の行政指令は効力を失った。翌昭和27年(1952)4月28日講和条約が発効して日本の独立が実現すると、服役中の1200人あまりの「戦犯この言葉は戦勝国が勝手に呼んだので括弧をつけたり、いわゆると断る必要がある)」の早期釈放を求める国民大運動が湧き上がった。
そして、昭和28年(1953)には「戦犯の赦免に関する決議」が国会で可決され、「戦犯」裁判で死刑・獄死した人の遺族にも弔慰金・遺族年金が受給できるようになった。また刑死・獄死は法務死(公務死)と認定され、軍人恩給が復活した。また、「法務死」のため刑死者・獄死者は靖国神社への合祀の認定基準に達した。
昭和33年(1958)5月末までにはすべての「戦犯」が釈放され、彼らは国内法上「犯罪者」ではなくなった。つまり、「戦犯」と呼ぶのは旧敵国であり、日本では犯罪者ではない。このことは国会で圧倒的多数で可決されたことである。

昭和34年(1959)月の厚生省通達で、「戦犯」裁判での法務死亡者も合祀対象となり、昭和48年(1973)までに「B・C級戦犯」が、昭和53年(1978)に「A級戦犯」が合祀された。参照:戦犯(A・B・C級)
このように日本では「A・B・C級戦犯」は国事殉難者と位置づけられ、靖国神社では「昭和殉難者」と呼んでいる。
毎年8月15日に日本武道館で行なわれている全国戦没者追悼式の「戦没者の霊」には「A・B・C級戦犯」も含まれているし、「戦犯」の遺族にも招待状が送られている。

昭和26年(1951)10月、秋の例大祭では、前月にサンフランシスコ講和条約の調印を終えた池田茂が靖国神社を参拝した。GHQは靖国神社を国と徹底的に切り離し単なる「一宗教法人」とした。占領下では首相の参拝は許されず、このときもまだ講和条約発効前で占領下だったが、吉田は一刻も早く英霊に条約調印の報告がしたかったのだろう。
吉田茂は首相在職中、5回参拝、岸信介は2回、池田隼人は4回、佐藤栄作は11回、田中角栄は5回公人として参拝している。歴代総理は春秋の例大祭などにほぼ毎年ごく当たり前に公式参拝して、それにどこかの国が反発することなど皆無だった。このように大東亜戦争後、靖国神社への首相による参拝は当然のこととして行われていたのだ。
ところが、昭和50年から徐々に首相の靖国参拝が問題化されていく。⇒靖国参拝問題

靖国神社をわかりやすく言うとこうなる。
ある村で戦死者が出た。その人の家は日蓮宗だったからその家では日蓮宗の葬式をする。
ところが村として慰霊をする場合、戦死した人が日蓮宗だとか浄土宗だからといって、それぞれの宗派で別々にやるわけにはいかない。手間がかかるし、形式も違うからである。ところがありがたいことに日本には宗派を超越して教義を押し付けないもの、神道があり、神社という場所がある。だから、各コミュニティーで招魂社という神社を作って、そこで宗派を問わず神式で祀ることにした。神式というのは祀り方であって霊魂を慰めることが目的で、別に「これを信じろ、あれを信じろ」と命令しているわけではない。だからどの宗派でもOK。そして、個々の家では自分の宗派で葬式をすることとも矛盾しない。
それで日本中の招魂社(今では護国神社と呼ぶようになっている)の中心が靖国神社であるとしたわけである。

「靖国」とは「国を靖んずる、安泰にする」という意味。
靖国神社には246万6532柱の御祭神(ごさいじん)が祀られている。祀っているのは英霊である。朝鮮半島出身者約2万1000柱、台湾出身者約2万8000柱、「ひめゆり部隊」などの女性も5万7000余柱祀られている。
御神体は御剣と御鏡であって、御祭神の姓名を書いた霊璽簿(れいじぼ)は御神体ではない。
靖国神社には遺骨も位牌もない。「霊が祭られている」という観念だけしかない。墓とはまったく違う。
誰を祭神とするかを選定しているのは靖国神社ではない。終戦までは陸軍省と海軍省が、終戦後は厚生省が戦没者を個別審査して「祭神名簿」を作成し、靖国神社はそれを受理して、祭神一柱ごとに「霊璽簿」を作り合祀する。いわゆる「A級戦犯」も、この手続きどおりに厚生省から「祭神名簿」が送られ、合祀された。つまり国民の総意を受けて、国が彼らを御祭神と認定したのである。それを今になって支那政府に気に入られたいから外せ、というのは馬鹿だけにしか言えないたわごとであろう。
靖国神社は民間の浄財で成り立っている。ちなみにアーリントン墓地の費用はすべて国費である。

イタリア人の日本文化研究科のヴィルピッタ・ロマノ教授は次のように語って、靖国を否定する戦後の日本人を厳しく批判している。
「国のために命を捧げた人たちのみたまを一つの神社に合祀し、国の守り神として国民全体で守るという発想は、日本文化の素晴らしい成果であり、この気持ちこそ宗教観の根底にあり、人類共通の感じでもある。戦争の目的が何であれ、多くの国民が民族共同体のために良心的に命を捧げた事実は動かせない。彼らの行為を国民の誇りとし、後世に模範として伝えることである。そうすることによって、英霊の犠牲は、国民全体の神聖なる遺産となり、国民の道徳観も養成されるのである」

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参考文献 歴史年表