靖国参拝問題

アメリカの占領が終了すると日本の首相は早速公式参拝を再開した。それに対してどこかの国が反発することなど皆無だった。このように大東亜戦争後、靖国神社への首相による参拝は当然のこととして行われていたのだ。
ところが、以下のような経過をたどってこれが問題化されていった。

昭和50(1975)年
首相の三木武夫が8月15日に参拝したが、そのとき記者団がくだらない質問をした。例の「公人としてか? それとも私人としてか?」である。これに対して三木は馬鹿げたことに「私人として」と答えた。その後も首相の参拝が問題になることはなかったが、これをきっかけに天皇の靖国御親拝ができなくなるという大きな禍根を残した。天皇の天皇の靖国御はそれまで数年おきに行なわれていたが、この年を最後に現在まで行なわれていない。
この年以降、社会党・共産党は「憲法違反」と騒ぎ出し、靖国の前でマスコミが「公人としてか? それとも私人としてか?」という馬鹿げた質問を毎年するようになった。

昭和53(1978)年
官房長官の安倍晋太郎は、内閣法制局見解(単なる内閣の補佐機関だが、馬鹿げた法解釈をすることがよくある)に基づき、首相の参拝は「私的参拝」と決めてしまった。
一方で同じ年、靖国神社は連合国による裁判でいわゆる「A級戦犯」とされた人々14柱を合祀した。これに反発したのは日本の左翼だけで、合祀の後も大平正芳が3回、鈴木善幸が8回、中曽根康弘が9回参拝したが、外国で騒ぐ国など皆無だった。

昭和55(1980)年
鈴木善幸内閣は「参拝は違憲ないかとの疑いを否定できない」などという馬鹿らしい政府統一見解を発表。鈴木は公私の別を明言せずに靖国神社に参拝した。鈴木内閣は教科書誤報事件という重大な汚点を残している。

昭和57(1982)年
中曽根康弘内閣が発足。公約に「靖国公式参拝」を掲げていた中曽根は奥野元法相を委員長とする小委員会に「政府統一見解」の見直しの検討を指示。その報告に基づき、昭和59年(1984)に自民党は全会一致で参拝合憲を決定するに至った。ところが、中曽根内閣は突然、官房長官の私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会(靖国懇)」を設けて検討すると発表した。中曽根は奥野委員長見解では野党・マスコミの反発をかわせないと判断し、新しい懇談会を作ったらしい。この懇談会には反靖国の学者を入れていた。

昭和60(1985)年
戦後40年の終戦の日に首相が靖国神社を公式参拝するかが注目され、「靖国懇」の報告書提出が近づくと、マスコミ、特に朝日新聞は常道を逸した「反・靖国キャンペーン」を展開し始めた。「戦前回帰」「軍国主義」といったヒステリックな記述が朝日新聞に連日登場し、8月7日には「『靖国』問題 アジア諸国の目」という記事で、「(靖国問題に)中国は厳しい視線で凝視している」と馬鹿なことを書いた。朝日新聞お得意のご注進で、支那への火付け記事を書いていたのが加藤千洋(かとうちひろ)。朝日放送の「報道ステーション」で古舘伊知郎の隣に座っている輩で支那の工作員、あるいは支那に買収されたとしか思えない男である。8月9日に靖国懇が提出した報告書では条件付で公式参拝合憲だったが、違憲とする少数意見も併記されていた。反靖国の学者を入れている懇談会だからこうなるのはわかりきっていたことだった。
8月15日、中曽根は予定通り靖国神社に参拝した。朝日新聞はお決まりの「戦前回帰」「軍国主義」などをヒステリックに唱えて非難した。朝日新聞と並んで日支関係を決定的に悪化させた犯人・社会党の委員長、石橋は「新しい戦争は始まっている」と意味不明の発言で糾弾した。
8月26日には社民党書記長の田辺誠を団長とする社会党の支那訪問団が北京入りし、支那首脳に対し「中曽根内閣が軍事大国を目指す危険な動きを強めている」とくだらないことを述べ、靖国公式参拝反対、防衛費GNP比1%枠撤廃反対を訴える。そして翌8月27日、支那の副首相が中曽根の靖国神社公式参拝を非難した。支那共産党政府の要人が靖国参拝を批判したのはこのときが初めてであった(支那、靖国参拝に内政干渉)。中曽根の参拝から12日もたっていたのであり、この非難は社会党がそそのかしたのは明らかである。これをきっかけに支那の靖国非難が始まった。「靖国問題」などというものを作り出したのは、朝日新聞と社会党である。
支那では対日非難を表明する保守派の発言力が強まり、親日で中曽根と懇意だった支那共産党総書記の胡燿邦の立場が危なくなった。このため中曽根は、それまで参拝していた秋の例大祭参拝を断念、翌年以降の靖国神社参拝を中止してしまった(中曽根、支那に屈服)。
中曽根は公式参拝を取りやめる際、胡燿邦を守るためと事実を言わずに、「A級戦犯が合祀されているため」とほざいた。恐るべきことに中曽根は今でも「A級戦犯分祀」を訴えている。

平成13年(2001)
小泉8月13日参拝

支那が靖国非難を行なったのには、支那(中華人民共和国)の国内事情があったのである。
支那共産党のそれまでの社会主義政策がことごとく失敗し、支那国内での求心力が低下していた。支那共産党はそれまでの階級・マルクス主義では人々の支持を得られなくなり、その正統性を主張するために反日政策を展開し始めた。それは侵略者日本を倒した支那共産党こそ正当な支那の支配者であるという、支那伝統の易姓革命の考えに基づくもの。それによって支那共産党の指導者達は独裁専制を保とうとしているのである。靖国神社は支那共産党の反日政策のシンボルにされてしまい、歴史問題や教科書問題と共に外交カードとして使われるようになった。つまり、靖国問題、歴史問題、教科書問題はすべて支那共産党の問題なのである。実際には支那共産党も、支那人も靖国神社が何であるのかまったく知らないし、まったく関心がない。

どうでもよいことだが、元社会党の党首である土井たか子は「靖国神社を大事にすることは、軍靴の響きが聞こえてくることだ」と馬鹿なことをよく言っていた。
文部大臣になった遠山敦子は「私は靖国神社に参拝したこともありませんし、これからも行くつもりもありません」とほざいていた。
菅直人は「首相が(靖国神社を)お参りするということは、A級戦犯が戦争を始めた行為を容認、肯定することになる。小泉氏は首相という自覚がないのではないか」などとばかげたことを言った(2001年7月)。
どういうつもりか知らないが、民主党の元代表の岡田克也は「靖国神社には参拝しない」と言い張っていたし、支那を訪問して靖国参拝を批判している。

靖国神社参拝に反対するのは左翼だけではなく、その中には一部のキリスト教徒や仏教徒も入っている。キリスト教徒がどういう連中だかは不明だが、仏教徒は浄土真宗系といわれている。檀家の多くが被差別部落の人だから、被差別部落系の僧侶がいて、「反権力」ゆえに左翼と連携して靖国神社に対する反対運動を起こしているらしい。ふつう仏教の宗派が神道を攻撃するという伝統は日本にはない。用明天皇が神も仏も両方崇めることにしてから仏教は日本に定着した。その後日本に宗教戦争はなかった。

靖国神社とは

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参考文献 歴史年表