満州事変までの満州の状況

北清事変の際、ロシアの軍隊は混乱に乗じて満州全域を占領してしまった。日本、イギリス、アメリカは抗議するが、ロシアは居座り続け、さらに南下して北朝鮮に入ろうとした。ロシアの朝鮮半島への南進は日本の脅威であり絶対に阻止しなければならないということで日露戦争(1905〜1906年)が勃発。勝利した日本はポーツマス条約によってロシアを満州の地から追い払い、満州を清国に返還した。その代わりにロシアが持っていた権益の一部を譲り受けて南満洲鉄道(満鉄)の経営を始めた。
そして日本はこの荒地に鉄道を敷き、産業を興して繁栄の元を築き、また関東軍によって治安を確保したため、満州支那とは異なり内乱のない平和な別天地として発展した。日露戦争後、日本が特殊権益を有した満州は日本の主導によって大発展したのである。
辛亥革命(1911年)以来、支那では革命政府が2つも3つも現れて統制が利かず、総人数が200万人とも言われる軍閥同士が四六時中戦争を行なっていたが、満州には強力な日本軍(関東軍)がいるために戦争をすることができなかった。こうした理由から支那の戦乱を逃れて毎年100万人ものおびただしい数の支那人(漢民族)が満州に流れ込んだのである。

清朝(満州人)は自分たちの郷里である満州に支那人(漢民族)が入ることを嫌っていたためもともと満州はあまり人口が多くなかった。しかし、日露戦争(1904年)のころには1000万人辛亥革命(1911年)のころには1800万人だった満州の人口は、満州事変(1931年)の頃にはなんと3000万人にまで増えていたのだ。
また、満州の貿易額は支那の2.5倍にもなっており、これは満州の治安がよかったことを示すものである。

しかし、その一方で日本の利権に対する侵害が行なわれていた南満州鉄道(東支鉄道の南支線)と競合する鉄道の建設は禁止されていたのだが、張作霖張学良は東西に二大平行線を敷設した。このため、日本の満鉄は衰微してしまったのである。また、大正4年(1915)の日華条約では、南満州での日本人(外国人)が商工業・農業を営むために支那の土地を租借する権利を認められたにもかかわらず、張作霖・張学良は日本人に土地を貸した者を死刑とした。また、排日教育により反日感情を煽り続けていた。学校においては排日教育を行い、軍隊においては排日宣伝を行い、排日唱歌、排日軍歌を歌わせ、満州の人々に反日感情を植えつけ続けたのである。(現在の支那(中華人民共和国)も相変わらず同じことをやっている)

清朝崩壊後に、支那の治安は乱れ、日本を追い出せという運動が始まった。満州だけでなく支那においても侮日行為・鉄道妨害などの事件が多発していたのだ。日本人の子供たちに悪罵や石を投げつけるといった陰湿ないじめは日常化し、さらには日本の企業に勤めている支那人に対しても脅迫行為がおよび、町のいたるところにビラが貼られて反日スローガンで埋め尽くされる。また、日本人が町中で殺されたとか、日本人経営の鉱山が爆弾で爆破された、といったニュースがしょちゅう日本国内にも伝えられる。
これらの反日排日運動の背後には国民党支那共産党がおり、さらにその背後にはアメリカ、イギリス、ソ連(コミンテルンがいたのだ。

満州における排日運動が強まるにつれ、日本人と支那人の間の衝突が増加し続けた。在満朝鮮人(日韓併合後は日本人とされた)迫害やテロを含めると、昭和6年(1931)9月ごろには満州を巡る日本と支那の間の懸案は実に300件を上回っていた。

また、そのころ五ヵ年計画を成功させたソ連は、満州付近に大軍を集結させていた。ソ連との軍事力の差は日露戦争当時よりも拡大しており、満州に駐屯していた関東軍の危機感は強まる一方だった。
そして、万宝山事件、中村大尉殺害事件などで満州は限界まで緊迫した状態になっており、支那側が中村大尉の殺害を認めた日の夜、柳条湖事件(満洲事変)が勃発したのである。ソ連の軍事的脅威をはねのけ、かつ日本人居留民を保護しようというのが、満州事変のそもそもの目的だったのだ。

昭和4(1929)年7月に浜口雄幸内閣が成立、軟弱外交で有名な幣原喜重郎がまたしても外相として返り咲き、弊害がすでにあきらかだったはずの「幣原外交」が再開されてしまった

  第二次幣原外交(1929.7〜1931)

1931年に入ると、もう満州の日本企業や日本人は営業したり、日々働くことさえ難しくなっていく。満鉄では、枕木を引き抜かれるような事件も頻発。万鉄の付属地の外にいる日本人は、度重なる営業妨害でまったく商売ができなくなって、どんどん付属地の中に逃げ込むようになる。
当然、日本人経営者は、毎日のように日本総領事館に訴える。なんとかしてくれ、と。しかし、交渉相手の満州地方政権、張学良は「我々に権限はない、南京国民政府と話してくれ」などといって、交渉を拒否する。仕方なく、日本政府は厳重に抗議するばかり。それ以上の行動は何も起こさない。
加えて問題を難しくしたのは、当時80万人いた在満朝鮮人農民に対して支那人が迫害を加えた。これに対して東京の日本政府は形式的な抗議をするばかりで有効な保護政策を採らないわけだから「日本人は朝鮮人を保護してくれない」という世論が朝鮮の中で高まり、朝鮮人まで日本の統治に不信感を強める。
そこで、「幣原外交たのむに足らず」と在満邦人が結束して団体や結社を作り、関東軍に直接働きかけるようになっていった。さすがに在満邦人の我慢も限界となっていた。
そして、最後の最後、昭和6(1931)年の夏に立て続けに起こった事件が有名な中村大尉殺害事件万宝山事件だった。

  中村大尉殺害事件(1931年6月)
  万宝山事件(1931年7月)

満州事変は、日本と支那との関係に加え、欧米諸国の動きや世界経済とも連動していたのだ。また、満州の歴史そのものにも関わっていた。

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参考文献 歴史年表