現在作成中![]() 辛亥革命から間もなく1912年1月1日、南京で中華民国の建国を宣言し、孫文は臨時大総統に就任した。しかし、清朝は、北洋軍閥の長・袁世凱の出馬を仰ぎ、事態の収拾を図ろうとした。ところが、袁世凱が革命政府と気脈を通じていたため、1912年2月、清朝は倒れてしまった。そこでかねての約束どおり、孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。 ところが大総統に就任した袁世凱は一転、革命派を弾圧し独裁体制をとるようになる。こうして中華民国の実権は袁世凱に握られてしまい、革命は名ばかりとなってしまった。 孫文は支那南部で兵を挙げた(「第二革命」という)が敗れ、日本へ亡命する。 袁世凱は帝政を復活させて自ら皇帝になろうとした。革命によって清朝を倒して皇帝を廃したのに、袁世凱は今度は自分が皇帝になろうとしたわけだ。しかし袁世凱は支那南部の反乱によって帝政をあきらめ、1916年に急死した。 その後継をめぐって政府は分裂。各地方の軍閥が入り乱れ、支離滅裂の状態になる。それぞれが「自分こそが正当な支那政府」と言い張り、支那大陸は果てしなき内戦の時代となる。 翌年の1917年、孫文は広東に入って大元帥になり、第一次広東政府が成立する。しかし、外交機関は相変わらず北京にあり、北京政府と広東政府が支那に存在することになる。さらに両政府内には軍閥・派閥の戦争があり、どこが支那政府かわからない状態だった。そのため、列強が植民地化した「租界」の中だけが「桃源郷」だった。 辛亥革命から支那事変に至るまでの支那は軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦が休みなく続いた戦乱の時代であった。北洋軍閥を中心とした北京政府の実権をめぐる攻防戦だけでなく、南方においても各省の軍閥間で戦争が繰り広げられていた。全国的に見ても省VS省、村VS村といった戦争は絶えることがなく、たとえば四川省だけでも約500回もの軍閥内戦があった。 中華民国時代に各地にはびこった軍閥は、清帝国時代の総督より実権は強大だった。清の総督はあくまで中央から派遣された地方官であったのに対し、民国の軍閥は私兵を有しながら専制権を確立していた。住民に対しては封建的搾取をほしいままにする”半独立”諸侯だった。 軍閥は勢力の維持・拡大のため、他の軍閥と合従連衡し、同時にそれぞれが外国列強と手を結んでいた。 袁世凱の権力の「遺産」をめぐる軍閥割拠の内戦では、覇者は走馬灯のように入れ替わり、いずれも三年ともたない混戦ぶりだった。 当時の支那を二分していたのは段祺瑞らの北京の北洋軍閥と、その対抗勢力として南方の西南軍閥だった。孫文は革命拠点を築くため、西南軍閥と提携した。 孫文が目指したのは、西南軍閥の軍事力を利用しての南北統一(北伐)だった。 のちの国民党軍の北伐の最中、同党内だけでも武漢政府VS南昌・南京政府、南京政府VS北京政府、その後も広東政府VS南京政府など、政府乱立による政府間抗争が相次いだ。続く国共内戦時代では国民党VS地方ソヴィエト政府の戦いが、そして支那事変時代には南京、重慶、延安の各政府による三つ巴の攻防戦が、それぞれ熾烈に展開された。 中華民国の時代とは「一国多政府時代」である。決して「中華民国」なる統一された一つの近代国家が存在していたわけではない。どの政府にも支那全土を支配する力はないのに、自分たちこそ「全支那に支持された正当政府」と主張していた。 辛亥革命で共和制が敷かれたものの、当初各省・各県を支配したのは、各地方の武装勢力だった。それは軍閥であり、革命派であり、あるいは単なる匪賊集団だったが、どれ一つとして支那を再統一したものはなかった。 大勢力を誇る北洋軍閥(北京政府)や南方革命派(広東政府)でさえ、それぞれ南伐、北伐を試みたが成功しなかった。 1920年代に台頭してきたのが連省自治派である。 孫文は、連ソ容共の姿勢をとったが共産主義者に転向したわけではない。コミンテルンの国際共産主義を、自分が唱える「三民主義」の一部(民生主義)だと錯覚し、得意になっていただけである。 ここまでの支那の状況 支那、相変わらず軍閥・匪賊が跋扈し、複数政府状態(主要な政府:張作霖の奉天政府、袁世凱を継ぐ軍閥による北京政府、孫文の広東政府) 蒋介石により中華民国が一応の統一をみた後、支那の内戦は本質的に重大な変化を遂げる。軍閥の群雄割拠から、国民党と共産党の二大勢力が対決する国共内戦へと変わった。 |
1905年 | 衰退した清は立憲君主制を導入し、近代改革に着手したものの、すでに手遅れだった。 | |||||
1911年 | 辛亥革命 | |||||
1912年 |
1月1日 | 孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に成立。 | ||||
新政府樹立後の攻防戦で、革命軍は強力な袁世凱軍(北洋軍閥軍)に敗退を重ねる。 | ||||||
2月 | 「南北妥協(南京政府と袁世凱の建てた北京政府の合流)」が成立。 孫文は清朝皇帝を退位させることを条件に袁世凱に大総統の地位を譲り、日本に亡命。 |
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清朝皇帝(宣統帝溥儀)の退位で清朝は消滅。 | ||||||
辛亥革命後の権力闘争は凄まじいものだった。政党数は会派を含めて600を超えた。結局、革命後の権力は「南北対立」、つまり袁世凱の共和党と宋教仁の国民党との抗争に収斂されていく。 | ||||||
1913年 | 3月 | 国会選挙の結果、国民党が半分以上の議席を占めたが、宋教仁は袁世凱側に暗殺され、実権は北京政府に。 | ||||
7月 | 袁世凱に反対する国民党急進派(南方革命派)が江西省で挙兵する(第二革命)。 しかし、結局は袁世凱の精鋭軍に打ち破られ、反袁指導者は殺されたり亡命する羽目になる。 |
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1915年 | 勝利を収めた袁世凱は国民党を解散させ、大総統の権限を強化し、共和制を廃止。 | |||||
12月 | 袁世凱は皇帝に即位。国号を中華帝国に改める。 | |||||
袁世凱の帝制復活・帝位就任に反対し、反袁世凱派が雲南で挙兵する(第三革命)。(第二、第三革命は、袁世凱に対する南方革命派や反袁派による革命戦争であり、また各省に君臨する軍閥の権力争奪戦争でもあった。中華民国内戦時代のプロローグと呼ぶべきものであった) | ||||||
1916年 | 貴州、広西、広東、浙江、陝西、四川、湖南などの各省が相次いで独立を宣言する。 | |||||
袁世凱は大勢に敵せず、南方との妥協を策して帝政を取り消す。 | ||||||
袁の実権を承継したのは段祺瑞(だんきずい)。段祺瑞の派閥は安徽派軍閥と呼ばれ、日本の支持を受ける親日派だった。 | ||||||
6月 | 袁世凱病死。 | |||||
1917年 | 8月 | 孫文、大元帥に就任して広東政府を樹立する。(その後、北京の反段祺瑞派の国会議員らも南下し、これに合流する。しかし、外国は相変わらず北京政府と国交していた) (北京政府も全土を統治できたわけではなく、辛亥革命以来、軍閥・匪賊が跋扈する複数政府状態が乱立し、内戦状態だった。この状態は1949年支那共産党の中華人民共和国立まで続く)。 |
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1918年 | 孫文、広西軍に排斥されて上海に逃げる。 | |||||
1919年 | 段祺瑞は欧州大戦後、パリ平和条約における山東省のドイツ権益の日本移譲を承認。これを不満とする国民・学生が北京で反日デモを行う(五・四運動)。全国的な反日運動が巻き起こる。 | |||||
1920年 | 7月 | 安徽派はライバルの直隷派(清時代の直隷省。後の河北省)軍閥の挑戦を受けていたが、国務総理に就任した段祺瑞は直隷派を攻撃した(安直戦争)。 安徽派は英米の支援を受ける直隷派軍閥に惨敗し、政権は直隷派に移る。安直両派の対立の背後にはそれぞれを支援する日本とイギリスの勢力争いもあった。 |
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秋 | 孫文、広州で第二次広東政府樹立する(翌年5月、非常大総統に就任)。 | |||||
1921年 | コミンテルン、上海で支那共産党結成。 | |||||
孫文、北伐の軍を挙げようとするが、連省自治派に反旗を翻され、再び上海へ逃亡。 | ||||||
1922年 | 4月 | (当時、広東には孫文による反北洋軍閥の政権が誕生していた。これに対して段祺瑞は武力統一(南伐)を唱え、直隷派は和平統一を求めた。しかし、直隷派もいざ政権をとると、やはり南伐の主張に転じる。ここへきて新たな敵が出現した。満州の張作霖の奉天軍閥である。張は当初、安徽派の段と結んでいたものの、安直戦争では直隷派に左袒し、戦勝後は直隷派の曹?とともに北京を支配していた。この張の寝返りにより、事態は奉直対峙の局面を迎えた。) 第一次奉直戦争。満州・張作霖の奉天軍閥と直隷派の戦争。これに敗れた張作霖は満州の奉天に敗退し、東三省(遼寧、吉林、黒竜江省)の独立を宣言する。 |
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12月 | 孫文、共産党と話し合い、共産党員が国民党に入党するという形で合意に達する。 孫文、コミンテルンのヨッフェと会い、国共合作を決める。 |
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1923年 | 1月 | 第三次広東政府樹立、孫文、大元帥に返り咲く。 | ||||
1924年 | 9月 | 第二次奉直戦争勃発。 奉天軍と直隷派との戦闘中、直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が北京でクーデターを起こす。直隷軍は破れ、呉佩孚(ごはいふ)は下野する(しかし後に張作霖と共に北京政府の実権を握る)。 |
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広州で国民党第一次全国代表大会を開催し、「国共合作」の方針を定めた。 | ||||||
1925年 | 支那共産党、国民党内工作決議案を全党員に指令。国民党内に共産主義分子が深く浸透することになる。 | |||||
3月 | 孫文死去。国民党内で激しい権力闘争が始まる。北洋軍閥間の内戦以上の凄惨さであった。 孫文亡き後の有力者は広東政府を軍政府から国民政府に改めたが、党内世論は反共に傾き始める。 |
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黄埔軍官学校長の蒋介石が台頭。軍の実権を握る。 | ||||||
1926年 | 3月 | 中山艦事件(砲艦「中山艦」が黄埔へ回航しようとしたのを、蒋介石は自分を拉致するための共産党の陰謀と見なし、党・軍内の共産分子を逮捕した。共産党と提携を深めていた汪兆銘、国外に脱出)で蒋介石、権力を掌握。 | ||||
7月 | 7月 | 南方で国民党の孫文の後継者の蒋介石が率いる国民革命軍が「北京政府打倒・軍閥討滅」を掲げて北伐を開始。これに対して張作霖と呉佩孚は南伐を開始。国民党は西北軍閥、山西軍閥、広西軍閥と合流して、南北戦争を激化させる。その間も国民党内で内戦が繰り返される。 | ||||
2月 | 共産党は国民党左派とともに武漢政府を作る。 | |||||
4月 | 4.12上海クーデター(共産党員、労働者などの大量虐殺) | |||||
6月 | 武漢政府から共産党員が追放される。国共分裂(第一次国共合作終了)。 | |||||
8月 | 南昌で武装蜂起(共産党) ここから盧溝橋事件まで「第一次国共内戦」 この内戦から、軍閥の争いから唯物史観的な階級闘争へ質的に変化した。民衆も殺すか殺されるかの闘争に巻き込まれる。農民の放棄と暴動に対する討伐・虐殺は凄惨を極めた。 |
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12月 | 支那共産党、広州で武装蜂起、広州コミューン樹立 (12/13 鎮圧) | |||||
1930年 | 中原大戦。民国最大規模の内戦。蒋介石が北伐を成功させた後の独裁政権を目指そうとし、それに邪魔な非直系軍をつぶそうとしたもの。汪兆銘、北平(北京)で、反蒋介石の新たな国民政府を組織。 国民党内戦7年間の犠牲者は3000万人と言われている。満洲事変勃発の一年前のこと。 |
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中華ソビエト共和国臨時中央政府樹立。 蒋介石の南京政府は、西安事件まで、旧軍閥との戦いよりも共産党との内戦で多大な犠牲を払う。当時の南京政府の支出は8割以上が軍事費。 共産党も国民党同様、苛烈な内部抗争を行ないながら国共内戦を戦っていた。血の粛清。 |
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12月 | 33年10月まで。蒋介石、五回に渡って掃共戦。 | |||||
19280〜30:西北大飢饉。餓死者は一千万人といわれる。 | ||||||
1934年 | 10月 | 支那共産軍長征開始 | ||||
1936年 | 西安事件(第二次国共合作) | |||||
1937年 | 7月 | 盧溝橋事件 |
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