西安事件(1936年12月)

蒋介石の共産軍掃討作戦により共産軍は逃避行を行い、陝西省の延安に到着したときはわずか6千にまで激減していて壊滅寸前だった。

  共産軍延安着

蒋介石は延安に総攻撃をかけるため、張学良の東北軍を陝西省の省都・西安に送り込んだ。ほとんど壊滅間近の共産軍の息の根を止めるためだった。
ところが、督戦のため西安にやってきた蒋介石が、突如張学良に捕らえられ、共産軍の捕虜となってしまった
張学良が共産党に寝返った理由として以下のことが考えられる。
  • 張が共産軍の抗日救国のスローガンに惹かれた
  • 父(張作霖)が日本軍に殺されたと信じていた
  • 満州から日本軍に追われて日本軍が憎かった

  張作霖爆殺事件(1928年)
  八・一宣言(1935年8月)

実際にはこのときどのようなやり取りがあったかは不明である。関係者の発言が食い違い、張学良も真実を語らずに死んでしまったためである。
しかし最も考えられるのは、命は助けるから掃共は止めること、日本と戦え、と蒋介石は命令され、合意したことである。

張学良は、共産党との内戦の停止と抗日を要求する宣言を発表した。

毛沢東は蒋介石を殺したくて仕方がなかったが、コミンテルンより蒋介石を殺すなという指令が来た。支那共産党は周恩来を西安に派遣し、張学良に蒋介石を釈放するよう説得した。

こうして「第二次国共合作」が成立し、絶滅寸前だった支那共産党は生き返ってしまった
蒋介石は掃共(共産党掃討)を中止し、一致抗日に向かうことになる。国民政府は軍事費を国家予算の70%まで上げ、ソ連の術策に乗せられ、支那はとうとう軍国主義と戦争への道を突き進み始めた。そして、北支那では40万の支那軍が日本の支那駐屯軍5000を包囲し、徐州あたりでは中央軍35万が待機し、支那はいつでも日本軍を全滅させる準備を整えた。ここまでくれば向こうは戦争をしたくてたまらないわけだから、あとはいつ起こってもおかしくはない。そして起こったのが盧溝橋事件である。

  盧溝橋事件(1937年7月7日)

蒋介石が日本に対して強硬な姿勢をとるようになったのは西安事件の影響が大きいが、二・二六事件が響いていると渡部昇一氏は指摘している。日本は団結するから怖いが、日本の軍隊が自分の国の偉い人を殺し、内乱を起こすような状況にある。それならばと日本をなめたのではないだろうか。

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参考文献 歴史年表