武漢政府樹立(1927年2月)

北伐が成功している中、司令官の蒋介石は武昌、漢口、漢陽という武漢三鎮を陥落させ、さらに何昌に軍を進めた。しかし、国民革命軍内の共産党と国民党左派はこれに従わず、1927(昭和2年)2月、武漢に国民党政府を移転させて武漢政府を樹立した。代表はソ連(コミンテルン)が送り込んだボロジンである。

武漢政府は左派ではあるが国民党との合同だったのでまったくの共産党政権ではなかったが、それに近い政府が支那に始めて誕生した。ソ連は喜び、それ以降、より積極的に支那の赤化(共産化)工作を行なうようになる。
武漢政府が樹立された翌月の1927年3月、武漢政府は蒋介石から国民革命軍総司令の座を取り上げた。これは支那の赤化工作の一環だったと思われる。
しかし、蒋介石は司令官の肩書はなくなっても軍を保持したまま北伐を続行、上海や南京を占領する。
こののち、共産党に与しない蒋介石一派は南京を拠点に武漢政府との対立を強めていく
以上のような経緯で支那の国民政府は二分され、互いに抗争を始めたわけだが、この間、国民革命軍による排外的な暴力事件が生じている(南京事件、漢口事件)。

  南京事件(1927年3月)
  漢口事件(1927年4月)

ソ連(コミンテルンIは喜び、国民党右派と徹底的に戦うよう指示した。

これに対して蒋介石は1927年(昭和2年)7月に上海クーデターを実行し、南京政府を樹立する。

  上海クーデター
  南京政府樹立


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参考文献 歴史年表