コミンテルン(第3インターナショナル)

ロシア革命によってソビエト政府(ソ連)が誕生し、しばらくは大混乱状態が続いた。
国内で人々が殺戮しあっている分には他国はかまわなかったが、ソ連は共産主義を輸出し、世界中を共産主義国にしてしまおうと行動に出た。そのための組織として、コミンテルン(第三インターナショナル)が1919年(大正8年)に作られた。
革命政権は樹立直後から、一国だけでは世界中から包囲されて生き延びることはできない、と重大な危機感を抱いていた。そこでコミンテルンを作り、世界各国で知識人や労働者を組織して共産主義の革命団体を世界中に作り出し、すべてをモスクワからの指令によって動かし、各国の内部を混乱させ共産革命を引き起こそうとした

コミンテルンの目的は、規約の第一条に書いてある。それは、全世界ソビエト社会主義共和国連邦をつくることである。つまり、世界中を共産主義体制にすることが、コミンテルンの目的とされたのである。だからモスクワに集められた共産主義者たちは、自国に帰って、まだ党を作っていないものは党を作り、そして暴力革命がオーソドックスな共産主義革命の方法であるから、暴力によって共産主義政権をつくり、以後はモスクワの指令に従って行動せよ、と命令された。(暴力革命一点張りはスターリンが死んで3年たった1956年の第20回ソ連共産党大会でフルシチョフが平和的移行路線を出すまで続く)
その目的の下で日本では大正11年(1922)に日本共産党が作られた。日本共産党はコミンテルン日本支部として発足した。元朝日新聞記者だった尾崎秀実ゾルゲと組んで日本に不利ないろいろなスパイ活動をして、重要な情報をスターリンに届けていたのは、共産主義者としては当たり前のことだった。

その手始めとして1920年代前半は、コミンテルンは先進国ヨーロッパでの共産革命を目指した。しかし、これはことごとく失敗に終わった。革命を輸出しようとしたために西欧資本主義諸国から警戒され包囲されたソ連は、コミンテルンを使って西欧諸国の植民地支配を帝国主義と批判し、「産業の発達や資本主義の伸展が大量の原料と市場を必要とし、西欧諸国は資源と市場を得るために帝国主義的な戦争によって、アジアやアフリカに植民地を確保した」と反帝国・反植民地主義キャンペーンを開始した。

「先進国革命」は難しいと判断したソ連は、今度は一転して、非ヨーロッパ圏に狙いを定めた。最初のターゲットはインドだった。コミンテルンは莫大な金と人員をつぎ込むが、イギリスの情報機関によりコミンテルンの手先はすぐさま察知され追い出されてしまった。

ソ連は、1921年(大正10)に蒙古西方に最初の衛生国であるトワ人民共和国を樹立した。続いて、1924(大正13)には2番目の衛生国である蒙古人民共和国を樹立した。これら衛生国を足場にして、満州、北支那、蒙古に働きかけた
当時の支那にはイギリスの上海、香港を筆頭に、日本もフランスもアメリカも利権を有していた。ここで革命を起こせば、これらの国々にまとめて大きな打撃を与えられると考えた。「是が非でも支那に革命を起こせ」というのが、1922年に病に倒れ、24年に没するレーニンの最後の遺言だった。最終的には、支那大陸および満州から日本を追い出すことがコミンテルンの最大の目標となった

コミンテルンは戦術として民主主義と共産主義を結びつけた。共産主義は国境を越える思想であり、本来なら民族主義と相反する思想なのだが、共産主義を掲げたソ連は猛烈な国粋主義(ナショナリズム)の国になった。ソ連はナショナリズムと共産主義を結びつけることで革命後の国家をまとめ上げたのである。この手法を支那にも応用し、反外国思想というかたちでの民族主義と共産主義を一体化させて植え付けようとした。反外国思想の対象は初めイギリスだったが、ソ連はイギリスとそれほど仲を悪くする必要がない。そこで、矛先を日本に向けてきた。

1930年代に入りドイツと日本が接近すると、西欧諸国の植民地主義や帝国主義批判をストップして、東西国境の安全を確保するため日独を対象に反軍国キャンペーンを展開し始めた。

  人民戦線テーゼ(1935年)

この反軍国主義史観は東京裁判で勢いを増し、日本の歴史が大きく変えられた

コミンテルンの日本に対する戦略

ソ連は樺太で国境を接し、満州において邪魔な日本に標的を定めた。日露戦争での敗北の復讐をしようと考えもあった。そして民族主義の名を借り、日本に対して支那人を立ち上がらせることがコミンテルンの基本戦略となった。

  22年テーゼ
  27年テーゼ
  32年テーゼ

コミンテルンの支那に対する戦略

清朝滅亡後、軍閥匪賊が割拠して内戦が延々と続く支那はコミンテルンの格好の標的であった。しかし、支那にはブルジョアジーもプロレタリアートもいなかった。そこでコミンテルンは辛亥革命後10年以上経っても統一国家ができず、軍閥や匪賊に搾取され続けている一般大衆に目をつけた。打倒する相手はブルジョアジーではなく軍閥・匪賊そして諸外国とし、排外運動に結びつけた。つまり、排外運動を支援することによって共産主義を輸出し、それによって世界を支配しようと考えた(これは結局は見事に成功することになる)。
また、コミンテルンは、自ら樹立した支那共産党を支援すると同時に、支那で力を持つ国民党を利用しようとした。支那の共産党員に国民党への入党を勧め、国民党を乗っ取ろうと画策したのである。国民党と共産党は1924年(大正13)の国共合作以来離合集散を繰り返すことになるが、国民党内には共産主義分子が深く浸透していった。

ソ連は大正8年(1919)にカラハン宣言を発表する。

  カラハン宣言(1919年)

ソ連は侵略目的のためにコミンテルンを動員利用することになる。

コミンテルンは第二次世界大戦中の昭和18年(1943)まで続く。ソ連がコミンテルンを解散したのは、アメリカやイギリスと連合するためだった。

日本国内でのコミンテルンの影響

日本国内では、コミンテルンに影響された支那観がいまだに尾を引き、大きな弊害となっている。それは左翼陣営だけでなく、戦後保守論壇にも大きな影響を及ぼしているのだから根が深い。

1919年 コミンテルン結成
1921年 トワ共和国を樹立
支那共産党を組織
1922年 コミンテルン世界大会で「君主制の廃止」を決議
1924年 蒙古人民共和国を樹立
国民党第一次全国代表大会(決議に国共合作[国民党と共産党の協力体制]が含まれる)
1925年 支那共産党、「国民党内工作決議案」を全党員に指令
1327年 27年テーゼ。日本の共産党に「天皇制廃止」を指令
1932年 32年テーゼ
1935年 人民戦線テーゼ

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参考文献 歴史年表