満州易幟(えきし)(1928年)

張作霖爆殺後は、息子の張学良亡くなった父親に代わり満州を支配するようになった。父を殺したと思った日本を恨み、満州に権益を持つ日本と何の交渉もせずに蒋介石国民党と手を組んだ。
張学良は突如、満州が支那国民党)の一部であることを宣言するために青天白日旗(当時の国民党政府[つまり支那]の国旗)を掲げた(これを「易幟(えきし)」という)。これはつまり「満州は支那(中華民国)の一部だ」と宣言したことになる。張学良は、12月29日、その旗を満州の主要都市に一斉に掲げさせた。日本の意表をつく華々しいパフォーマンスだった。これは日本と戦うと宣言したに等しい行為である。
この後、国民党の勢力が満州に入ってきて排日運動が激化し、日本は多大な被害をこうむることになる。
北伐完了の余勢をかって国民党は満洲権益を奪取しようとして排日政策を激化させた。もともと満州は万里の万里の長城の外で、支那ではなかったのだが、満州が経済発展すると国民党は「満州を返せ」と言い始めたのである。

それまでの日本は満州と支那を切り離しておこうという考えだった。そうすれば満州における日本の権益は守れる。ところが張学良が青天白日旗(支那の国旗)を掲げたので、そんなことは許しておけないということになり、それがやがて満州事変につながっていく。

  満州事変(1931年)


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参考文献 歴史年表