張作霖爆殺事件(満州某重大事件)(1928年6月)

張作霖は満州の実権を握っていた奉天軍閥の首領だった。もともとは馬賊の頭目にすぎなかったが、満洲駐在の関東軍に接近して庇護を受けるようになってから勢力を伸ばし、1911年の辛亥革命後、当時の実力者・袁世凱のもとに走り、満州の中心地・奉天(現・瀋陽)を中心に力をつけた。支那全土を掌握しようとして、一時は北京まで攻めのぼった。

1927年(昭和2)、国民党軍の北伐に対抗するため、北京に陣取る軍閥「北方安国軍」を組織して、張作霖が大元帥の地位についた。それに対して、下野していた蒋介石が北伐(国民革命軍)総司令として復帰すると、軍閥の馮玉祥や閻錫山ともてを結んで共同戦線を張り、北京に攻め上ってきた。そして北京の南方に200キロにも及ぶ戦線において対峙し、南北大決戦の様相を呈してきた。
このあたりには列国の居留民が多かったので、列国は共同で北軍と南軍(国民革命軍側)の総司令官に、「列国の支那駐屯軍は南北いずれの軍にも味方しないが、どちらかが居留民の生命や財産に危害が及ぼされた場合は加害側に断固たる処置をとる」と警告を発した

戦場においては北軍が不利だった。張作霖が満州に逃げてきて、それを南軍が追うようになれば、満州が戦場になってしまう。満州には日露戦争以来、日本の権益が確立しており、山海関を越えて支那の軍隊が満州を侵略してくる事態は日本はどうしても防がなければならない。ところが、蒋介石の北伐軍が北京に迫ると、張作霖は支那の軍隊を連れて満州へ逃げようとした満州の実質的な支配者が支那の軍隊を満州に引き込んだら、満州は支那になってしまう。また、これを口実に蒋介石が追い掛けてくると、満州は支那の軍隊が争う戦場になり、日本の権益は危険にさらされる

張作霖はじわじわと日本の特殊権益を侵すようになっていた。ひとつは鉄道権益の圧迫である。1924年(大正13)、満鉄線に平行して鉄道を敷こうとした。平行線ができれば満鉄の収入は激減してしまう。また、コロウ島に新しい港を築いて、大連の港を枯死させようともした。日本は張作霖を後押ししたために張作霖は満州で威張れた。それにもかかわらず日本の権益を侵そうというなら、そんな奴は殺してしまえという意見も出たかもしれない。

こういった緊迫した状況にあった昭和3年(1928)6月4日、北京制圧を断念した張作霖は列車で満州の奉天に向かったが、その列車が爆破された。張作霖は運び込まれた病院で死亡した。

張作霖の死は、奉天省長の意向もあって二週間以上伏せられたままだった。張作霖軍に動揺が走るのを避けるためだったといわれる。
この爆破事件に対して関東軍は支那人の便衣隊(ゲリラ)の仕業に違いないという見解だった。しかし、時がたつにつれ、どうも関東軍の謀略だったのではないか、という見解が強まった。しかし真相はなかなかつかめない。
田中義一首相は天皇に対して曖昧な報告をしたため、天皇は「おまえのいうことは信用できない」と田中首相に不信感を示した。そのため田中内閣は辞職せざるをえなくなった。田中儀一は辞職後まもなく亡くなった。この件での心痛や落胆が病死が原因らしい。

当時の満州では、鉄道をめぐる事件が頻発していた。数年間の間に100件以上も鉄道爆破事件があった。満州には匪賊と呼ばれるテロリストたちは推定100〜300万人いたといわれる。「土匪」(いわゆる馬賊)のほかにも「半農半賊」(状況次第で匪賊になる連中)、「宗教匪」(宗教的秘密結社)、「政治匪」(敗残兵たち)、「共匪」(共産ゲリラ)・・・などが神出鬼没、昭和8年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件を数えた。

張作霖爆死事件も一時はそのうちの一つと考えられていた。だからこの事件も結果的には大きな国際問題にならなかった
しかし、この事件は日本の満州侵略の始まりであるかのようにいわれるようになる日本はこの爆殺事件を支那の便衣隊のせいにして、それをきっかけに満州全土を領有しようとしたといいたいわけだ

東京裁判では、昭和6年の満洲事変を「日本の支那侵略の第一歩」ととらえ、それから敗戦(昭和20)年までの15年間を「日本軍国主義の時代」として断罪した。そうした見方に便乗して、日本の左翼の歴史家たちは大東亜戦争を含むこの前の戦争を「日中十五年戦争」と呼んでいるわけだ。もっと過激に「いや、その前の張作霖爆殺事件あたりから日本の侵略ははじまっている」とする左翼学者もいる。そうした見方が戦後の歴史教科書にも脈々と受け継がれ、日本人にかたよった歴史観を植え付け続けている

このように事件は長い間日本の関東軍の陰謀(高級参謀河本大作大佐の独断)と考えられていた。しかし、最近、コミンテルンの仕業という話が出てきた。ロシアの歴史家たちが、日本の孤立につけ込んだスターリンが、関東軍に秘密に工作を行なって、張作霖を爆殺した、という説を唱えている
また、最近、新たな視点から書かれた毛沢東伝「マオ」(ユン・チアン著)が、コミンテルンの謀略であったことを明らかにしている。
たしかにあの頃、満洲の鉄道に関して、張作霖とソ連は緊迫した関係にあったから、日本よりもコミンテルンの謀略だと言うほうが自然に思える。
かりに日本軍がやったとしても、それは、日本政府の不決断と先延ばしに業を煮やした軍部の、焦燥感にかられての暴発、その始まりの事件だった。

リットン報告書のような反日的な組織であった国際連盟が長期にわたって調査した結果においても、「神秘的な事件だ」という主旨で、結局のところよくわからないということになっている。報告書も日本軍陰謀説を採用していない。

  リットン報告書

東京裁判でパール判事は、「神秘的であってよくわからないが、どのみち共同謀議とは関係ない」と言っている。

河本大作の「手記」なるものが月刊誌に掲載されたことがあったが、そのときすでに、河本大作は亡くなっており、「手記」は左翼の親類が書いたものだと言われている。

張作霖が死んだ5日後に、蒋介石の北伐軍は北京に入り、南京政府による南北統一が成る。

  南北統一(1928年6月)

張作霖の死後は、息子の張学良が大元帥になり、奉天省を治めるようになり、満州易幟(えきし)を行う。

  満州易幟(えきし)(1928年12月)

もうひとつ、この事件には昭和史をめぐる大きな問題が隠されている。前に述べたとおり、田中義一首相は天皇に「田中首相の言うことはちっともわからぬ。再び彼から聞くことは自分は嫌だ」といわれて、田中首相は辞任したが、今度はそれが重臣たちのあいだで問題になった。内大臣や元老・西園寺公望といった重臣たちは、天皇陛下は立憲君主なのだから政治的な意見を述べるべきではないというようなことを言った。今度に限り天皇の一言が内閣を総辞職させたのだから、明治以来歴史的な天皇の発言ということもできる。
昭和天皇はこう回顧している。
「こんな言い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えている・・・。この事件あって以来、私は内閣の奏上する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」
この満州某重大事件で「田中首相の言うことはちっともわからぬ」と自分の意見を述べた後に、昭和天皇の意見が日本の政治を動かしたことは二度しかなかった。ひとつは二・二六事件であり、もうひとつはポツダム宣言を受諾を決めた御前会議のときである。

近年公開された蒋介石の日記によれば、張学良は、父(張作霖)の爆殺以前から国民党に秘密入党していたことが明らかになった。とすれば、張学良が父の爆殺に何らかの形で関与していた可能性すら出てくる。

東京裁判で田中隆吉は「河本大佐の計画で実行された」などと検察側証人として証言した。

  田中隆吉

さすがにパール判事は、田中の証言は検事の差し金だと気付いた。パール判事は張作霖事件に関する証言はすべて伝聞証拠にすぎないと断定している。東京裁判のころ、事件の主犯とされていた河本大作大佐は生きて支那に捕らわれていたのだから、証言させればよかったのに、そうしなかったのである。その後、河本大佐の手記なる告白記事が雑誌に出たことがあるが、これは彼の親類の左翼の男が書いたものとされている。

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参考文献 歴史年表