「田中上奏文(メモランダム)」事件(1929年)

昭和2年(1927)6月に東方会議という連絡会が開かれた。その2年後の昭和4年(1929)、「田中上奏文(メモランダム)」という英文のパンフレットが世界中にばらまかれた。
「上奏文」とは「天皇に渡す文書」であるが、漢文と英文のテキストだけが支那と欧米各地に流布し、日本語で読んだ人は一人もいないという、誰がどう考えてもインチキ文書である(ちなみに、あのインチキな「東京裁判」でさえも偽文書と扱われた)。

この文書は昭和2年(1927)7月に田中義一首相が天皇陛下に上奏したものというかたちになっていて、そこでは、
支那を征服せんと欲せば、まず蒙満を征服せざるべからず、世界を征服せんと欲せば、まず支那を征服せざるべからず云々」という計画が日本にあるということをほのめかしていた。つまり、日本が満洲、蒙古を押さえて支那を奪い、さらに世界征服するという方針が書かれていた。

支那はこれを徹底的に排日資料として使った

「田中上奏文」においては、長州閥の田中義一が自分の親分である山県有朋が死んだことを知らない記述になっているなど、偽文書であることは誰が見ても明白だった。そのため当時の日本はこの「田中上奏文」をまったく問題にしなかった。しかし、嘘の宣伝に対抗策を講じなかったのは大失敗だった。

これが南京発行の雑誌に登場した昭和4年(1929)秋という時点を考えると実に見事なタイミングだった。つまり、日本の対支那積極外交転換にうまく乗っかり、南京事件によって喚起された英米の対支那硬化姿勢を微妙にそらし、支那に同情させようという意図を持っていた。
翌年には支那で出版計画も持ち上がり、日本の重光葵代理公使が支那の王正廷(おうせいてい)外交部長に取締りを要請してもまったく相手にされなかった。かえって昭和6年に満州事変が起き、満州国が建国されると、この文書の予見性が世界に信じられるような事態となってしまたった。

偽文書「田中上奏文」がさらに重大な影響を及ぼしたことは東京裁判からわかった。
あのフランクリン・ルーズベルトがこの「田中上奏文」を信じて、日本を潰す覚悟をしたのだ。この偽文書は日本にとって悲劇的な結果をもたらす一因となったのである。最近の研究では、この田中上奏文はソ連でコミンテルンが作成して世界中に広めていたことが判明した。当時、ソ連の独裁者であるスターリンは満蒙国境に関心が高かったから、そこに世界の注目を集めておきたかったのだろう。

蒋介石は武力で日本に勝てないので宣伝で勝とうとする明らかな方針を持っていた「南京大虐殺」なる事件も、新聞記者の秘密工作員に給料を払って支那に有利な宣伝文書を書かせたものだ。
日本に勝つためには嘘の情報をいくら流してもかまわないという姿勢だった。(現在の支那共産党もまったく変わらない)

ちなみに、インチキな東京裁判でもこの「上奏文」が支那の検事側から出された。しかし、嘘が明白であるため証拠として認められなかった。

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参考文献 歴史年表