昭和5(1930)年5月30日夜から31日にかけて、満州と朝鮮の間に位置する間島地方で、暴徒が交通機関や発電所などを破壊し、日本の領事館や親日朝鮮人の家が襲われた。満州の共産主義者たちが朝鮮人の反日並びに共産主義諸団体とも提携して引き起こした事件である。 このあとも日本の施設や親日朝鮮人に対する攻撃が続いた。 このため現地朝鮮人(日韓併合後は日本人と見なされた)より、外務省外交を非難し、日本の武力行使を要望する請願さえ出されるに至った。 ところが、外相の幣原喜重郎は斉藤実(まこと)朝鮮総督の反対を押し切って、応援の警官を間島から引き上げさせてしまった。一方、東三省の当局は襲撃や暗殺を抑えることができない。このため現地の人達は幣原外交に不信感を持った。 結局、間島地方における共匪事件は昭和5年後半に81件、死者44、負傷者、消失家屋無数といわれた。 これらの共匪事件に使われた武器・弾薬がソ連から搬入されていたことも、支那当局による共産党員の逮捕に寄って判明した。これはコミンテルンの魔手が満州にも深く浸透してきたことを意味した。 第一次欧州(世界)大戦のときに、赤化の波が押し寄せるのを止めるためにシベリア出兵したのは正しかったのである。 こういった満州での反日・侮日は満州事変を誘発する。 満州事変(1931年) |
参考文献 | 歴史年表 |