八・一宣言(救国運動)(1935年)

コミンテルン第7回大会で反ファシスト人民統一戦線の方針が出されると、1935年8月1日、蒋介石の掃共戦により逃避行中の支那共産党はさっそく八・一宣言(正式名は「抗日救国のために全同胞に告ぐる書」)を発表した。

  人民戦線テーゼ

これは日本と協調するような姿勢のある国民党の有力者達を売国奴などと罵りながら、一方で内戦をやめて抗日救国の戦いをしようと呼びかけるものだった。

資本主義者の国民政府は共産党がまず潰すべき相手だったのに、それはとりあえず横に置き、ナショナリスティックな面を訴えて、協力して日本と戦おうという方針に転じた。それはスターリンがドイツとの戦争を始め、不利な状況になるとたちまち「祖国ロシア」を振り回し、「万国の労働者よ団結せよ」がどこかへ行ってしまったのと同じである。

ここで救国戦線といって各界救国戦線という運動をやった。つまり、婦人も商工業者も学生もみんな救国連盟をつくるようになった。
救国とは、ひとつは内戦停止、それから一致抗日。内戦停止とは、要するに国民党は共産党を討つのをやめろというわけ。つまり、蒋介石は毛沢東の軍隊を討つのはやめろということ。そして、一致して日本と戦おうというのが内戦停止・一致抗日であった。
これが救国戦線のスローガンで、これが非常に大きな影響を与えていく。

この救国戦線に大きな影響を受けたのが、満州事変によって満州に戻れなくなってしまった張学良である。この男が有名な西安事件を起こし、第二次国共合作を生んでいく。

  西安事件(1936年)

この救国運動と西安事件というのは、まさに共産党にとっては起死回生のチャンスだった。

共産党は本来、国境をなくして世界政府を作るはずであるのに、きわめてナショナリスティックになる傾向がある。ソ連も支那もどこでも共産主義国はそうなった。
このころ支那は「救国」という言葉に誰も反対できないような雰囲気になっていき、親日論は急速に影を潜めた。八・一宣言が出されて以降、抗日組織があちこちで生まれ、支那事変が始まる一年前の昭和11年(1936)には、支那全土各界の救国連合会が上海で作られた。全抗日勢力はここに大同団結した。
抗日救国は支那版の人民戦線運動であり、共産主義運動だった
人民戦線運動は決して世界の人民と提携するためのものではなく、ナショナリズムを煽るものであり、支那の場合はそのナショナリズムを日本に向けるためのコミンテルンの大政策だったのだ。
実際、1935(昭和10)年から翌1936(昭和11)年にかけて発生した日本人に対する主なテロ事件は、中山水兵射殺事件、日比野洋行襲撃事件、スワトー事件、菅生事件、長沙事件、成都事件、北海事件、漢口、上海事件、上海の第二邦人射殺事件などなど、抗日テロが続々と起こっている。

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参考文献 歴史年表