人民戦線テーゼ(コミンテルン第7回大会)(1935年)

満州事変の終結から2年経った1935年(昭和10)7月から8月にかけてモスクワでコミンテルン第七回大会が開かれた。ここで「反ファシズム統一戦線・人民戦線路線」が採択された。
ここでコミンテルンは、「ソ連が資本主義列国を単独で打倒すことは到底不可能である。目下の急務は、アジア正面の敵日本、そしてヨーロッパ正面の敵ドイツを撃破することだが、この二国は強力でソ連の手に負えない。従って、日独を欺くためには宥和政策を以てし、彼らを安心せしめ、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める」という戦略を建てた。

アメリカは支那大陸で日本の権益を奪おうとしていたため、的を得た戦略と言える。
この戦略はまんまと成功することになる。
ソ連は「日独を欺くための融和政策」としてドイツと1939年に不可侵条約を、日本と1941年に中立条約を結ぶ。

  独ソ不可侵条約(1939年)
  日ソ中立条約(1941年)

またこの大会では、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成が各国共産党に指令された人民戦線テーゼ)。
ここで超ファシズム国家であるソ連(コミンテルン)から日本は「ファシズム国家」という烙印を押されてしまったわけだ。お前にだけは言われたくはない、とはこのことだろう。
ソ連は日本が共産主義の防波堤となる満州国を作ったのが許せなかった。またドイツやイタリアは国家社会主義でファシスト勢力が共産党勢力を追放したからソ連は嫌悪していた

ちなみにドイツの「ナチス」とは「国家社会主義ドイツ労働者党」の略で、完全な社会主義政党である。つまりロシアとほとんど同じがゆえにドイツとロシアは反目しあった。

これ以降、ソ連は日本とドイツを公然と敵視するようになった。

この時期、広田外相は支那の国民政府と関係改善を試みていた(広田外相の「戦争はない」演説参照)が、ソ連はこれも気に食わなかった。
このコミンテルン大会で各国共産党は平和を希望すると演説したが、支那共産党だけは抗日戦争に対する願望を強調した。まさにソ連の意向に呼応していたのだ。

このコミンテルン決議を受けて支那共産党中央は、1935年8月1日に八・一宣言(抗日民族統一戦線結成)を支那全土に発した。

  八・一宣言(1935年8月)

支那では、救国戦線といって各界救国戦線という運動をやる。つまり、婦人も商工業者も学生もみんな救国連盟をつくるようになる。

東京でゾルゲと尾崎秀実が、日本と支那を激突させ、最終的には支那を支援するアメリカ・イギリスと日本を激突させる謀略工作を開始したのは、前年1934(昭和9)年の初夏であった。

支那共産党にとって、反ファシスト人民統一戦線の方針は歓迎すべきものだった。支那共産党は蒋介石の掃共戦で危機的状況に陥っていたからである。結局は、この「反ファシズム人民統一戦線」が支那共産党を救うことになる。

また、このコミンテルン第七回大会において、スターリンは「砕氷船理論」なるものを再確認した。

  砕氷船理論

このソ連(コミンテルン)の動きに対抗して日本はドイツと日独防共協定を結ぶことになる。

  日独防共協定

  コミンテルン
  22年テーゼ
  27年テーゼ
  32年テーゼ


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参考文献 歴史年表