満州事変(1931年)から支那事変(1937年)まで、日本と支那の関係は悪化の一途をたどったわけではなかった。両国の関係に改善の兆しがあった。 昭和10年(1935)、広田弘毅外相は議会で「自分の在任中に戦争は断じてない」と演説した。 これに応じて汪兆銘は日本との友好関係を図るべきと演説し、蒋介石もそれを支持する意思を示した。実際に支那側は、排日・排日貨停止案を可決したり、排日世論を指導してた者を罷免するなど、排日取締りをいくつか実行したのだった。 日本も支那にある公使館を大使館に昇格させた。支那にしてみれば一人前に扱ってくれる国はそれまでどこにもなかったから、支那は感激した。 このように日華関係に関係が改善された時期があったのだ。ただし、一方では反満抗日の挑発やテロが続いていた。 そんな中、日本と満州に友好的な立場にあった天津の二つの新聞社の社長がピストルで暗殺される。 親日社長暗殺事件(1935年) |
参考文献 | 歴史年表 |