アメリカが日米通商修好航海条約破棄、軍需資材輸出許可制公布を実施する中の昭和15年(1940)7月27日、大本営政府連絡会議は日本の日本の対南方政策の基本方針「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。それによれば、支那事変が未解決の段階においては、第三国と開戦に至らざる限度において対南方施策を行い、蘭印に対しては外交的措置によりその重要資源確保に努めるという趣旨だった。 こうして政府は8月下旬より日蘭会商を開始した。 この間、英米は日本の蘭印石油買付を阻止し、日蘭会商の円滑な進展を妨害した。当時の蘭印全産油量の74%をイギリス系資本が、残りの26%をアメリカ系資本が支配していた。英米蘭の対日策略のポイントは、(1)米英両国は蘭印に対日石油交渉を遷延させ、かつ契約の量と期間を制限させること、(2)蘭印は日本軍侵入の際はすべての石油ストックと精油所・油井を完全に破壊すること - であり、これについて英米蘭には緊密な協調体制が出来上がっていた。 オランダ側は欧州大戦におけるイギリスの最終的勝利を信じていて、またアメリカ依存の念が強く、アメリカの力で日本を牽制しようとして、米英豪の共同防衛にも秘密裡に参加していた。そのため、米英が健在であるかぎり、蘭印には日本との解消を成功させる意思はなかったのである。そして9月の三国同盟以後は、蘭印はことさらに日本を猜疑し、加えて米英の妨害や圧力もあり、日蘭石油交渉は暗礁に乗り上げ、11月末、いったん打ち切られた。その後、再び翌昭和16年1月より日蘭会商に入ったが、米英蘭三者の結託による遷延策謀のため交渉は進捗せず、6月17日、日本は仕方なく会商打ち切りを通告して前後10ヵ月余の長きにわたった日蘭会商は終わった。 参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著) |
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