支那事変の長期化に伴って日本は英米依存の経済体制から脱却するため蘭印資源に関心を向けたのは自然なことだった。とくに昭和15(1940)年1月の日米通商修好航海条約失効以後は、自存自衛体制確立のため、遅滞なく蘭印物資の買い付けをする必要に迫られた。 日米通商修好航海条約破棄 この条約失効以降、自存自衛のため蘭印(オランダ領東インド、今のインドネシア)からの物資、特に石油買い付けが必要となり交渉を続けた。しかし、アメリカとイギリスの妨害と圧力により、また、オランダはイギリスの最終的勝利を信じており、米国依存の念が強く、英米蘭三国は結託したため交渉は暗礁に乗り上げた。そして10ヶ月に及ぶ交渉は無駄だとわかり、日本は昭和16(1941)年6月17日に交渉打ち切りを蘭印側に伝えた。 それに伴い、仏印政府に対して以下の要求を行なった。
アメリカ軍はすでにイギリス軍に代わってアイスランドに進駐しており、日本の南部仏印進駐の3ヶ月も早い4月にグリーンランドに空軍基地を設けているので、日本の南部仏印進駐を非難する資格などアメリカにはまったくなかった。 これに先立ってアメリカ国務省の人間が野村大使を訪ね、仏印進駐の情報の真相を尋ねた。野村は、「英米の援蒋援助強化、米ソの協力で日本は包囲されつつある。アメリカはアイスランドを占領し、ダカールなどに手を伸ばす噂がある」と堂々と語った。 日本が南部仏印進駐を行なった理由: などの諸事情であった。特に、対日包囲陣構成上、仏印は重要地域であり、いつ英米側から仏印進駐が行なわれるかも知れず、日本はこれに対して自衛措置を講ずる必要があった。 日本の南部仏印進駐に対して英米が神経を尖らせた理由: 南洋が戦略物資の宝庫で、米英が最も必要とするゴムは世界総生産量の90%を、錫はマレー、蘭印、タイを主産地として世界の60%を占めていた事情による。この東亜供給路を日本の進出によって絶たれることが英米にとって大打撃だった。当時、フランスはドイツに降伏し、ドゴール政権はイギリスにあったため、ドゴールが仏印の管理を英米に依頼する可能性が十分にあった。何でもやりたい放題の英米が仏印を占領する可能性は高かった。経済圧迫に耐えかねた資源なき日本が、自存自衛の手段である米とゴムの供給地である仏印が敵の手に陥る前にこれを確保する行為に出たのは当時の国際通念上、自衛措置の範囲内だった。 日本が南部仏印進駐に踏み切る前にアメリカ、イギリス、オランダは相次いで日本資産の凍結を発表していた。当時も、また現在でもこのような行為は宣戦布告と同じとみなされている。日本の仏印進駐に対して、イギリス、アメリカ側はすぐに報復した。 アメリカは日本資産凍結を実施、8月1日には日米戦争の主因である石油禁輸に踏み切る。 石油禁輸(1941年8月1日) アメリカはイギリス、オランダにも対日石油禁輸を働きかけ、アメリカ、オランダ、イギリス、支那のABCD包囲網が構築された。 ABCD包囲陣 「東京裁判」では日本の仏印進駐を侵略とした。ソ連はポーランド、バルト三国、フィンランド、ルーマニア、イランを侵略し、イギリスは1940年5月にアイスランドを占領し、アメリカは1941年4月にグリーンランドに空軍基地を建設しているが、東京裁判ではこれらの国の侵略は裁判に関係なしとされた。あきれるばかりである。 |
参考文献 | 歴史年表 |