「日米了解案」(1941年4月)

昭和15(1940)年11月末、アメリカからウォルシュ司教、ドラウト神父という二人のカトリック僧侶が来日し、井川忠雄・産業組合中央金庫理事(元大蔵省官吏)の紹介で各界要人と会って日米関係打開につき画策した。
新しく駐米大使起用された野村の東京出発後、井川も渡米、両神父等と連絡して工作を開始し、結局4月16日、支那問題に精通した陸軍将校として野村のもとに派遣された岩畔大佐、井川、ドラウトの三名は日米の主張を折衷して「日米諒解案」と呼ばれる一案を作成した。同日、野村大使がこれをコーデル・ハル国務長官に提案したところ、ハルは「四原則」なるものを手交し、日本側がこの四原則を受諾し、諒解案を正式に提案するなら会談を始める基礎としてもよいと述べた。

  ハル「四原則」

この日米諒解案が日本に打電されるや、近衛首相はただちに政府統帥部連絡会議を招集し、協議したところ、大勢は受諾へ傾いた。諒解案は、日本軍の支那撤兵、支那領土の非併合、非賠償、門戸開放方針の復活などを挙げている一方、蒋介石・汪兆銘政権の合流、満州国の承認、日米通商関係の回復、日米首脳会談などを提案してたのであるから日本側が歓迎したのは当然だった。
陸海軍と外務省はただちに諒解案に検討に着手、アメリカ側への「主義上賛成」の返電は訪欧の途にある松岡外相の帰京を待って打つことになり、松岡に対しては速やかに帰国を促すことになった。

日ソ中立条約を調印して意気揚々と帰国の途に就いた松岡が近衛から電話でアメリカから提案が来ていることを知ったのは大連に着いた4月20日であった。
松岡の帰京後ただちに連絡会議が開かれたが、松岡は了解案については甚だ不機嫌冷淡であった。彼は「アメリカは第一次世界(欧州)大戦中、石井・ランシング協定を結んでおきながら、戦争が終わるとこれを破棄した。これがアメリカの常套手段であり、諒解案も悪意が七分善意が三分だ」と弁じて了解案を非難し、退席してしまい、他の出席者を甚だしく失望させた。陸海軍の間には松岡への反感が高まり、外相更迭論まで出た。陸海軍は速やかにアメリカ側に回答すべく外相を説いたが無駄だった。しかしながら、日米諒解案は松岡の主張を取り入れて大修正されてアメリカ側に返電された。これに対して5月31日には、アメリカ側修正案が提示され、翌6月21日には、この5月31日案の訂正案が野村大使にハルから手交された。
だが、翌22日には独ソ戦が勃発し全世界を震撼させた

  独ソ戦勃発(1941年6月)

参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著)


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参考文献 歴史年表