日本共産党

大正11年(1922)7月、コミンテルンの日本支部」として発足した。つまり日本の共産党には自主性がまったくなかった。資金も指令もすべてモスクワ(コミンテルン)に仰いでいたので、その言いなりになるしかなかった。
発足したとき、日本革命のための綱領素案(22年テーゼ)が作られている。

  コミンテルン22年テーゼ(1922年)

こんなテーゼが送られると、大物たちは共産党を辞めていった。
翌大正12年6月に一斉検挙が行なわれ、さらに9月に関東大震災が起こって社会主義者への弾圧が始まると、幹部たちは「解党」を決議。これに怒ったコミンテルンは、勝手に解散などさせない、といって党再建工作を支持した。
1925年(大正14)には治安維持法が成立。

  治安維持法

昭和2年(1927)、モスクワのコミンテルン本部から幹部たちに呼び出しがかかり、27年テーゼを押し付けられる。

  コミンテルン27年テーゼ(1927年)

昭和3年3月、共産党員検挙「3.15検挙」逮捕者は共産党員、シンパを合わせて線数百人。
昭和4年4月、共産党員検挙「4.16検挙」逮捕者700人。これで共産党組織はほぼ壊滅した。

当時の日本共産党のメンバーはあまりにも未熟だった。社会主義とか共産主義とか、あるいは理想の社会、そうした虚構を夢見て、日本の現実を見つめるリアリズムがなかった。だから世界制覇をもくろむソ連のコミンテルンにいいように操られてしまった

山本懸蔵はモスクワでスターリンに疑われ、スパイ容疑で銃殺された。戦後の日本共産党委員長の野坂参三の密告によるものであった。

悪名高き「広辞苑」は「日本共産党は・・・激しい弾圧下に35年まで地下運動を続行」などと嘘を書いている。世界の常識では「厳しい弾圧」というのは、大量検挙、大量処刑を含むもの。戦前の日本の治安維持法で死刑になった者は一人もいない。小林多喜二は獄中で拷問死したが、それは多喜二がものすごく警察を挑発したから。
「厳しい弾圧」は戦前ではスターリンのソ連とヒトラーのドイツと考えるべきで、日本のものは、ソ連やナチスに比べることはできない程度のものだった。

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参考文献 歴史年表