治安維持法(1925年)

日露戦争で日本はロシアに勝ったが、ロシアはいつでも満州に攻め込めるように軍備を充実させていた。この軍事的脅威は、1917年にロシアがソ連になり、その後五ヵ年計画を重ねて実行した結果、ずっと大きくなっていた。それどころか、ロシア革命は日本に新たな脅威を与えた。共産主義の流入という思想的脅威である。

大正11年(1922)のコミンテルン世界大会で「君主制の廃止」が決議された。

  コミンテルン22年テーゼ(1922年)

これにより共産主義の脅威はいっそう高まった。ロシア革命ではロマノフ王朝の王族が全員惨殺された。このため日本人は皇室の廃止と皇族の虐殺を恐れた
大正9年(1920)の尼港事件の影響もあり、暴力的なテロ行為の流入を防ぐために、大正14年(1925)、治安維持法が制定された
目的はあくまで暴力や大量殺人を伴う「共産主義」の取締りであり、左翼分子を摘発するための法律だった。「労働運動」や「社会運動」を取り締まるものではなかった。それは「治安維持法」と同時に公布された「普通選挙法」により、社会民主党・労働農民党・日本労農党などの無産政党が議席を獲得していることからわかる。

  普通選挙法(1925年)

また同法成立の翌年には「日本労働組合総連合会」が結成されている。
それにもかかわらず「天下の悪法」という汚名が着せられているのは、その後、戦局の緊迫とともに取締りがエスカレートしたからである。多くの人が冤罪で捕まり、警察の取締りの最中で亡くなった人もいた。しかし、共産主義思想を防御する目的、共産革命は残虐行為を伴う、という点を考えれば、一概に悪法とは言えない。

共産主義による虐殺された人の数については共産主義黒書が詳しい。

  共産主義黒書

治安維持法では死刑はなかった。それまではまだソ連の世界侵略の恐るべき全貌をよくわからなかったためである。昭和3年(1928)、田中義一内閣のときの改正で最高刑が死刑になった。そのころになるとソ連が何を企んでいるのか、コミンテルンが何を意図しているのか、また日本共産党が何を狙っているのか、そのあたりがだんだんはっきりしてきたからである。つまり天皇を失くそうというのが第一目標だということがわかってきたので、日本政府としても対策を迫られ、昭和3年の改正で治安維持法に死刑が入れられたのだ。
死刑が入れられたとはいえ、実際に治安維持法で死刑になった者は一人もいない。これこそ日本という国の特徴、国柄といえる。共産党を非合法化した国で死刑が一人も出なかったのは日本だけである。
現在でも北朝鮮、支那、ロシアで、当時のような激しい反体制活動を左右を問わずやったら、すぐに逮捕、銃殺である
取調べの最中に小林多喜二が獄中で拷問死ししているが、それは多喜二がものすごく警察を挑発したからである。死刑になったわけではない。

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参考文献 歴史年表