簡単に言って三つがあった。 1.陸軍は日露戦争以来、満洲の治安を担ってきたが、革命を起こしたスターリンは物凄い反日家だった(昭和20年に大戦が終わったとき「日露戦争の仇を取った」と言ったほど)。このスターリンが近代化された軍隊を満蒙国境に集めた。常備は8〜9個師団、3ヵ月以内に20個師団を終結させた。日本の関東軍は昭和7年ごろにはたった1個師団で、その後もずっと1個師団約1万人だった。これで陸軍がものすごく恐怖を覚えた。だから、何とかしてロシアと対決する方法を模索しなくてはいけないと考えた。 2.支那の民族意識を共産主義で煽って、そして、反日運動に持っていくのに大きな役割を果たした。だから、支那大陸にいた日本人たちは、非常に恐怖を覚えた。 3.皇室廃止の指令がコミンテルンから来た。これは日本人にとってはとてつもないことだった。ロシアではロマノフ王朝を倒して、皆殺しにして、皇帝の馬まで殺した。あんなことを日本でやる気なのか、なのに日本の政府は何をぼやぼやしているのかと、政情も民情も揺らいできた。 ところが当時はこれに対抗する理論がなかった。そしてどうなったかといえば、右翼が出てきた。 右翼といってもそのプログラムは左翼と同じだった。国体や天皇は尊敬するが、それ以外は左翼と同じだった。 民間の右翼、それを担いだ青年将校、それから国家社会主義でなければこの難局を乗り切れないと考えた新官僚たち、こういった連中が全部、社会主義から共産主義に近いプログラムを持って近衛文麿首相の周りにいた。 参考資料:広辞苑の嘘 (谷沢永一、渡部昇一) |
参考文献 | 歴史年表 |