山東省の済南城には、北軍が撤兵すると蒋介石の国民革命軍(北伐軍)が入城してきた。北伐軍には南京事件という悪行の前例があるため、日本は済南に軍隊を送り(第二次山東出兵)、守備地区を設けて居留民保護の体勢をとった。 第二次山東出兵 しかし、案の定、南軍が入ると同時に、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付などを行い、市内は緊迫の様相を呈した。 これに対し、南軍総司令である蒋介石より日本軍に対して「治安は北伐軍が責任を持って確保するから済南城内の日本軍の防御を撤去してほしい」との要請があった。日本軍はその言葉を信じて徹夜で防御を撤去した。 すると5月3日、突然北伐軍が居留民を襲撃してきた。各所で多数の男女日本人居留民が北伐軍の暴兵の手で虐殺されていった。略奪などを含めると被害者は400人にのぼった。 虐殺の仕方は支那伝統の言語に絶する残虐なものであった。たとえば、手足を縛り、手斧のようなもので頭部や面部に斬撃を加えられたり、滅多切りされたりした。婦女はすべて陰部に棒が挿入されていた。また、焼かれて白骨化し、焼け残った白足袋で日本婦人たるものがわかったというものもあった。白人にこんなことをしたら支那人は復讐としてもっとひどい大虐殺を食らっていたであろう。 当然のことながら、この事実を知った日本では暴支膺懲の国論が沸騰した。それでもすぐに攻撃せず、日本の山東省派遣軍は12時間の期限付きで責任者の処刑、北伐軍の撤兵等の要求を北伐軍に行なった。しかし、その要求を支那側が拒否したので日本軍は攻撃を開始した。ただし、安全地帯と避難路を指定しておいたため、北伐軍は城外へ逃げることができた。最終的に日本軍は済南城を占拠した。 この虐殺に蒋介石は絶望した。蒋介石としては、日本軍と事を起こしたくなかった。蒋介石の軍隊はごく少数の士官以外は全部そのあたりにいる者をかき集めて成り立っていたから、兵隊を十分に掌握できておらず、さらに悪いことに共産主義者が多数紛れ込んでいた。 この事件後、支那側は「外交官虐殺事件」なるものを作り上げた。済南で便衣隊から拳銃射撃を受けたために、日本側が全員射殺する出来事があったが、そこにたまたま国民党の外交官がいた。ただそれだけの話だが、これを支那側は「日本が外交官を虐殺した」と宣伝し、、排日感情を煽る材料にした。 中華人民共和国(支那共産党)は例によって例のごとくこの事件を歪曲し、反日運動に利用している。支那共産党の公式見解では「済南事件は北伐妨害のために日本人が起こした」となっており、5月3日を「国恥記念日」としている。日本の防御撤去は蒋介石の要請であることを忘れ、蒋介石の言葉を信じた日本側の善意を悪意にすり替えている。とにかく支那は嘘をついてでも自分が有利になるように宣伝するのである。 あきれたことに日本の広辞苑(岩波出版)は日本軍が市民を殺傷したかのごとく記述をしている。 日本は済南事件に関して国際連盟に覚書を出し、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘した。 済南事件に対する第三者の見方 ロンドンのデイリー・テレグラフは、「支那人は掠奪と殺人を天与の権利であるかのごとく暴行を繰り返している」「日本人の忍耐にも限界がある」「日本軍の行動は正当防衛」と論じている。このほかにもフランスやアメリカの新聞、支那の外字紙なども北伐軍に問題があったとしている。 青島のアメリカ領事は、日本軍の到着は一般に安心感を与えて、上流階級の者は人かに日本軍を歓迎していると本国に伝えた。 1外国人の手紙には「日本兵が総てのヨーロッパ人の生命財産を保護したることについては、我々ヨーロッパ人は感謝の念を禁ずることができない」と書かれている。 おおむね当時の国際世論は日本側に好意的であった。 なお、日本軍は済南事件に関して国際連盟に覚書を出した。そこで一番重要なのは、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘していることである。便衣隊はハーグの陸戦規定に違反する。 ハーグ陸戦条約 「交戦者」の要件 このあたりから、日本人の中にあった「このままいけば、北伐は北京では終わらない。日本の生命線―満州の権益にもおよんでくる」という危機感が高まってくる。そんなとき、翌月の6月4日、張作霖爆殺事件が起こる。 張作霖爆殺事件(1928年6月) |
大東亜戦争への道(中村 粲/著)より。 酸鼻!日本居留民虐殺さる 済南事件に於て、支那兵が我が居留民に加へた暴虐凌辱は言語に絶する悪鬼の所行であった。事件直後に惨死体を実見した南京駐在武官・佐々木到一中佐は其の手記に次の如く記した。 「予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。或る者は焼かれて半ば骸骨となってゐた。焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。我が軍の激昂は其の極に達した」(『ある軍人の自伝』) 上の佐々木中佐手記は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する下の外務省公電が此れを立証してゐる。 「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面上部を切落したるもの、右耳を切落された左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの2」(5月9日田中外相宛西田領事報告) 支那側の蛮行の模様に記録したものがある。其れは我軍及び警察と支那側の立会ひの下に済南医院が行った検視の結果である(小川雄三『済南事件を中心として』)。其の極一部を抜粋して、支那軍の殺人の手口の残忍非道ぶりを推察する一助ならしめよう。 西条八太郎(28歳) ・……両手を縛り顔面を地上に引きずりし形跡あり。 ・腰の中心より下部中央に向け貫通銃創あり。腹部射出口より約2尺ばかり小腸露出す。 西条キン(24歳) ・全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。 ・○○に約2糎平方の木片深さ27糎突刺しあり。 大里重次郎(28歳) ・……死因は顔面の挫傷と脳底の骨折なり。此の状態より察するに棍棒やうの器具にて殴打されたる結果ならん。 ・顔面挫傷と背部の刺傷は、周囲に出血夥しきに察するに、死者生存中に行はれたるものの如し。 多平真市(34歳) ・右前頭部に骨折伴ふ挫創あり。玄能(大型金槌)様の器物を以て打撃せるものの如く、頭蓋骨も美事に骨折を伴ふ。 ・唇下部より臍に至る延長約2尺の切傷より小腸を露出す……。 井上邦太郎(30歳) ・前頭骨・両眼・左上顎骨及び鼻を欠損す。 ・両眼球全く無し ・顔面は鳶口様のものにて打たれたるものの如し。死因は顔面の惨酷なる挫創なり。 藤井大次郎(40歳) ・広汎なる腹部の切創にて腹腔の内臓全部露出す。 ・○○は根部より切断せらる。 ・右眼球は見事に摘出せらる。 宮本猶八(55歳) ・○○は鋭利なる刃物にて根部より切断せらる。 高隈むめ(50歳) ・○○には深さ7寸の刺創あり(以下省略) |
参考文献 | 歴史年表 |