「三原則」提案(1935年)

日本がおとなしくしていると支那側は必ず何かを仕掛けてくる。それに日本が対応すると交渉によって協定ができる。こんなことが何度か繰り返された。梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定はそんな協定である。

しかし、政府間の外交においては好転した関係を進めようとする動きが続いた。
昭和10年(1935)9月、支那側は以下の三原則を提案してきた。

支那側三原則
  1. お互いに完全な独立を尊重
  2. 真の友好を維持
  3. 事件を平和的外交的手段で解決

支那側は、上記三原則で日支が真の盟友となれば、上海停戦協定・塘沽停戦協定の両協定と北支事件取り決め(土肥原・秦徳純協定梅津・何応欽協定)は必要がなくなるので取り消すことを希望する、と述べた(ちなみに、この支那側三原則と希望条項は、二年後盧溝橋事件が勃発した際、日本が日支関係改善のために作成した停戦交渉と国交調整案(いわゆる「船津和平工作」)の中にほぼ完全に生かされていたのであるが、この船津工作は大山大尉虐殺事件のために挫折することになる)。

それに対し、日本の広田外相は以下の三原則を提示した。

広田三原則
  1. 排日取締り
  2. 満州国の事実上の承認
  3. 共同で防共(日本にとって大陸における最大の問題はソ連共産党の浸透だった)

ここで大きな溝となったのは、支那が満州を自分のものだとしたことだった
「完全な独立尊重」では不平等条約の撤廃を要求し、租借地、居留地、領事裁判権の廃止を求めた。日本はむしろそれを進める立場であったからそれはいいのだが、支那側は返還すべき租借地として関東州を含めた関東州は日露戦争を戦い清国から借りた土地であり、支那の国民政府に返すべき場所ではない清国は今満州国になっているのだから国民政府とは関係ない。これが日本の立場であり、筋の通った主張である。しかし、この問題で話し合いは行き詰った

支那側では汪兆銘日本との協調を支持し、妥協の可能性があったのだが、汪兆銘はテロにあって重傷を負った。汪兆銘らの対日親善工作に反対する者によって汪は凶弾を受けたのだ。犯行は左翼によるものだと支那側から日本に伝えられた。数度の弾丸摘出手術が失敗すると、汪は健康上の理由で行政院長と外交部長を辞職した。行政院長には蒋介石自らが就任、外交部長には張群が就任した(蒋・汪合作の終了
こうして、支那指導部の交替と、折からの北支那自治運動の展開をめぐる日支交渉の中で、政府間での三原則の交渉は停滞してしまった。

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参考文献 歴史年表