昭和7年(1932)に血盟団事件や五・一五事件に引き続いて起こった重大事件。この事件を契機に軍部の政治的発言権が強固になる。 陸軍には皇道派と統制派という派閥があった。軍部を中心とした右翼社会主義政権を樹立するために皇道派がクーデターを起こそうとした。その目的は、軍部を中心とした「天皇をいただく社会主義政権」を作ることだった。 皇道派と統制派 右翼社会主義 昭和11(1936)年2月26日朝、1400人の兵士が首相官邸や警視庁などを襲撃し、内大臣の斉藤実、大蔵大臣の高橋是清などを殺害し、永田町一帯を占拠した。 岡田啓介首相は殺されたという知らせが入った(実際には生きていた)。このため政府がなくなったという事態なので、昭和天皇は断をくだした。本来、軍隊を動かすのは天皇の許可がないといけないし、平時編成から戦時編成へのの切り替えは天皇だけができるのに、青年将校たちはそれにそむいて軍を動かし、しかも天皇の重臣たちを殺した。そこで天皇が「彼ら青年将校は叛乱軍だ」と言い、反乱分子を許さない断固たる決意を示した。このため反乱は3日間で鎮圧され、首謀者の青年将校と思想的指導者の北一輝は逮捕、処刑された。 これによって皇道派は自滅し、統制派が主導権を握り、彼らの意思は陸軍の意思であるかのごとき状態になる。 その弊害は、早くも次の組閣に現れた。広田弘毅内閣の顔ぶれに自由主義的な思想を持つ者や、軍部に対立する者が見られたため陸軍大臣がごねたのだ。山本権兵衛内閣のときに軍部大臣現役武官制は廃止されていたから、広田首相は他のものに打診すればいいことだった。しかし、広田は二・二六事件の再現を恐れてできなかった。反乱軍が首府の一部を占拠するという未曾有の事件は、それほど大きな後遺症を残した。 軍部大臣現役武官制 その後、同じく広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活し、陸軍内に政治外交を担当する部署までできてしまう。陸軍の意思に反して組閣はできなくなってしまった。 こうして統制派の意思は陸軍の意思となり、それがついに政府をコントロールするという事態が生じる。 すでに統帥権干犯問題によって軍に干渉できないとされていた政府は、いまや陸軍の傀儡政権になってしまった。 |
参考文献 | 歴史年表 |