サンフランシスコ講和条約第11条

サンフランシスコ講和条約第11条では「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の諸判決を受諾」とあるが、これを「戦争犯罪法廷の裁判を受諾」と意図的に誤訳している記述が多い。原文は”trial”ではなく”judegments(複数形)”であるので「裁判」ではなく「諸判決」である。日本は講和条約で「裁判」の妥当性、つまり「東京裁判史観」(日本は侵略戦争を起こした犯罪国家という史観)を認めたわけではない。それを「裁判」と訳して、あたかも茶番劇(東京裁判)のすべてを受け入れたかのように洗脳させようとしている者が多い。
裁判の「内容」を受諾するか、「判決」を受諾するかは、絶対に混同してはいけない。古典的に有名な例としては「ソクラテスの弁明」がある。ソクラテスは「裁判」の内容に同意していない。しかし、法に従う市民として「判決」には従い、毒を仰いで死んだ。「裁判」と「判決」の違いは、すでに古代ギリシャから明らかだった。キリスト以来の多くの聖人・殉教者といわれる人も、「裁判」を受諾したわけではなく、「判決」を受諾したのだ。
戸塚ヨットスクール事件で裁判を受けた戸塚宏氏は、監禁致死・暴行致死という裁判「内容」には服しないが、法治国家の人間として「判決」には服した。だから、景気を短縮する機会が与えられても、それを受けなかった。裁判の刑期短縮を受諾すると、「裁判」を認めたことになるからである。

講和成立と同時に、占領中のすべての指令などが効力を失うというのが国際法上の原則である。これに基づき日本が戦犯を直ちに釈放する可能性があり、まさにこれを防止する目的で戦勝国は第11条を設定した。
その反面、赦免の条件も規定している。裁判参加11ヶ国の過半数が同意すれば日本政府は受刑者の赦免・減刑ができると規定している。そして、昭和33年(1958)東京裁判参加11ヶ国から日本政府に対し、戦犯者の刑の残りを免除する旨の通知があった。
この第11条は「東京裁判の受諾」を示すどころか、逆に国際法を蹂躙した報復が続いていた証拠である。

日本が独立を回復したころの日本政府や国会は、この条文を正しく理解していた。したがって「A級戦犯」といわれた人々も、正当な国際的、国内的手続きを経て釈放された。終身禁固刑を宣告された賀屋興宣(かやおきのり)は第三次池田内閣の法相になり、禁固七年を宣告された重光葵は、出所後は改進党総裁、鳩山内閣では副総理・外相となり、日本が国連への加盟を承認された第11回国連総会には日本代表として出席している。サンフランシスコ講和条約第11条の諸判決を受けた人たちは、このように国際舞台へ復帰した。そして日本を裁いた国から初判決を受けた人たちの解釈や活躍に一切異議は出されなかった。ということは、東京裁判の関係諸国も当時の日本政府と同じ解釈を第11条について持っていたことを明々白々に、しかも動かしがたく立証しているといえよう。
敗戦直後の日本の政治家は支那や朝鮮に卑屈ではなかった。それが講和条約締結から時間がたつにつれてだんだん卑屈度が増してきているのは、講和条約第11条について外務省の解釈がいつの間にか変わってきたことに原因がある。外務省はいつの間にか「裁判」と「判決」を混同し、それを政治家にレクチャーし続けている。

  小和田、東京裁判受諾発言(1985年)
  後藤田談話(1986年)

事実は、日本は東京裁判について納得がいったとは、一言も言っていない。ただ、個々の被告に対する「判決」は受け取った。だから、サンフランシスコ講和条約に従って刑期が残っている人は服役を継続させる。しかし、第11条の後半にあるように、関係国が許せば戦犯は免除される。それに従って、国内でも「戦争犯罪による受刑者の釈放に関する決議」が与野党一致で可決され、「A級戦犯」も免責されたのである。日本には戦犯はいないことになり、本人や遺族にも年金の受給が行われることになったのである。ただ、すでに死刑になった人を生き返らせるわけにはいかなかった。

  日本の「戦犯」

サンフランシスコ講和条約締結の翌年に中華民国との間で締結された平和条約には、東京裁判に関する特別の言及はなされず、この条約に付属する議定書C項では、サンフランシスコ条約の第11条は「この条約の実施から除外する」とわざわざことわっている。「戦犯」については特に重要視すると思われた中華民国は、それを平和条約では一歳問題にしていない。

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参考文献 歴史年表