東京裁判判決

昭和23(1948)年11月12日、「東京裁判」という名の茶番劇において25名に判決が下った。

アメリカ マイロン・C・クレマー
イギリス パトリック
ソ連 I・M・ザリヤノフ
フランス アンリー・ベルナール
支那(中華民国) 梅汝敖
オランダ バーナード・ウィクター・A・レーリング
カナダ E・スチュワート・マックドウガル
オーストラリア ウィリアム・F・ウエッブ
ニュージーランド エリマ・ハーベー・ノースクロフト
フィリピン ジヤラニフ
インド ラダ・ビノード・バール

有罪とする判決を下した判事は、アメリカのマイロン・C・クレーマー、イギリスのパトリック、ソ連のI・M・ザリヤノフ、支那(中華民国)の梅汝敖、カナダのE・スチュワート・マックドウガル、ニュージーランドのエリマ・ハーベー・ノースクロフト6ヶ国の判事。これが多数派として通り、日本国ならびに戦争の首謀者は有罪となった。

残りの5人の判事は異なる判決(意見書)を提出した。その見解、主張は以下の通り
  • フィリピンのジャラニフは6人の判決は軽すぎると主張。
  • オランダのレーリングは減刑を主張。「広田弘毅元首相は無罪、他の死刑囚も減刑せよ。ナチスの処罰に比して重すぎる」という見解
  • フランスのベルナールは、「この裁判は法の適用および手続きにおいても誤りがある」と裁判の不当性を指摘、「11人の判事が一堂に集まって協議したこともない」と内部告発した
  • インドのラダ・ビノード・バールは終始一貫して全員無罪を主張。「東京裁判は裁判にあらず、復讐の儀式に過ぎない」と強く抗議。裁判自体を違法として、根底から否定。⇒パール判決書
裁判の法廷は、少数意見の判決を認め、法廷記録には残している。しかし、公開の場で宣告されたのは、多数派の有罪判決だけだった。少数意見を隠すことによって、あたかも判決が全員一致で決まったかのごとく装ったのだ。こうした事実が公にされたのは、昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効の日である。それも新聞やラジオを通して、公式に発表されたわけではない。日本が再び主権を取り戻したその日、一冊の衝撃的な書籍(パール博士述・審理の裁き・日本無罪論)(田中正明著)が発売された。当時は大変な反響を呼んだ。この本は、アメリカ占領中、マッカーサー司令部により厳しい言論統制がしかれていたため、主権が回復するまで出版できなかったのだ。

  検閲

「東京裁判」が国際法上では、正当性のかけらもない茶番劇であるという評価は、すでに世界の常識となっている。裁判に関わった当事者たちでさえ後に次々と非を認めている。識者の証言は以下の通り。

  大東亜戦争・東京裁判に関する発言

「東京裁判」という茶番劇の過ちを認めたのは、レーリングだけではない。レーリングから「とうてい役不足」と酷評されたウエッブも、東京裁判の主席検事で米国の代表検事、キーナンも、後に東京裁判は国際法に準拠しない違法「裁判」であることを認めており、現在、東京裁判の正当性を信じている法律家は皆無といっていい(反日日本人と支那、朝鮮、ロシアなどの言論の自由のない少数の国を除く)。
当時、欧米など世界の法学者の間では、すでに東京・ニュルンベルグの両軍事裁判の是非について激しい論争が展開され、多くの学者たちが東京「裁判」の正当性に疑間を呈し、「裁判」に対する反省を口にしていた。欧米のマスコミもさかんにこのニュースを流していたのだが、被害国であるはずの当の日本は、議論に参加しないばかりか、マスコミも国民もこの重大な国際問題に無関心だった
本来、問題を指摘すべき、当時の日本の有識者や法律家、それを伝えるべきジャーナリストは、あえて東京「裁判」から目をそむけ、歴史の真実を解き明かそうとせず、アメリカのご機嫌をうかがってばかりいた。外務省の役人は、英文パンフレットまでつくって、東京裁判に対する御礼を出していた。日本の国益を考えれば、間違いは間違いとして正し、将来への禍根は断ちきっておくべきだったのだが、そこで道を誤ったために、「長いものには巻かれろ」「ことなかれ主義」という戦後の悪しき習慣が日本国民に浸透してしまった。

  東京裁判史観

ラダ・ビノード・バール判事は後に「裁判所が判事団に指令して、あらかじめ決めている多数意見と称する判決内容への同意を迫った。さらにそのような事実があったことを極秘にするために、誓約書への署名を強要された」と暴露している。パール博士は当時、このようなプレッシヤーの中、断固として同調を拒否し続けた。パール博士の毅然とした態度は、占領軍、ひいてはアメリカ本国の大誤算だった。

  パール判決書

昭和21年の春、マッカーサー司令部は、すでに発布していたチャーター(極東国際軍事裁判条例)を改訂して、すでに任命している連合国9ヶ国の判事団に加え、当時は欧米列強の統治下にあったフィリピンとインドから判事を招聘することを決めた。パール判事が選ばれたのは、インドの独立運動に参加していなかったからである。インドは長い間、西洋列強の支配に苦しんでおり、この列強の支配から脱するための独立運動を支援したのが日本軍だった。
フィリピンとインドの判事を加えた理由は明白である。当初の判事団には、アジアからは支那(中華民国)だけしか入っていなかった。アジア2ヶ国(当時アメリカとイギリスの植民地)の判事を参加させることによって、アジアの多くの国が日本を罪悪視しているという印象を演出しようとしたのだ。ところが、マッカーサー司令部の意に反して、高潔な法律家であったパール博士は、「法の真理」に準じ、最後まで公正な判決を貫き通してしまった。

仮に、東京裁判が名目どおり「平和に対する罪」を裁く裁判だとしたら、世界のいかなる国に対しても公正に国際法が適用されてしかるべきである。裁く者は戦勝国民で、裁かれる者は戦敗国民などということがあってはならない。戦争に勝った者が正しく、戦争に負けた者が正しくないなどという理屈は通らない。

死刑 東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅、松井石根、武藤章
終身刑 荒木貞夫、梅津美治郎、大島浩、岡敬純、賀屋興宣、木戸幸一、小磯国昭、佐藤賢了、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、南次郎、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹
有期刑 重光葵(7年)、東郷茂徳(20年)

この判決から、東京裁判で死刑にするか否かを決定したのは捕虜虐待の罪の有無だけだったということがわかるが、死刑とされた人々が本当にそんな罪を犯したのだろうか。
広田弘毅は外務大臣だから捕虜虐待などするわけがない。それでも「違反行為防止責任無視による法規違反」により死刑になった。広田は南京が攻略されたとき近衛内閣の外務大臣であったので、「南京大虐殺」の報告も受けているはずだが、それを止めなかったというわけだ。南京で何かあったとしても東京にいる外務大臣は何もできやしない。
木村兵太郎はビルマ戦役での責任を問われ、板垣征四郎は満州で憎まれたのとマレーでの責任、土肥原賢二がシンガポール、武藤章がフィリピン、東條英機は総理大臣としてきちんと取り締まらなかったという理由でそれぞれ死刑判決が下っている。しかし、これらの人たちが直接捕虜虐待をしたわけではない。広田弘毅と同様に、虐待を止める立場にありながら止めなかったという理由で死刑になったわけである。

捕虜虐待の防止を徹底しなかったという理由で死刑にするならば、ベトナム戦争中のソンミ村における虐殺のときのアメリカのウエストモーランド将軍、さらにその上のジョンソン大統領にも責任があったことになる。イラクのファルージャでの虐待、住民の殺害なども、イラクの司令官やブッシュの責任が問われることになる。だが、誰もその責任を問われていない。要するに、「東京裁判」で処刑された人は誰一人として死刑になるほどの重い罪を犯していたわけではなかったのである。

結局のところ、「A級」で死刑になったのは、侵略戦争の共同謀議に加えて捕虜虐待の監督不行き届きを問われた人たちだけだった。
東京裁判で焦点とされた「共同謀議」はもともとイギリス法でも最長2年の刑しか処せない軽罪だった。そのため死刑判決を受けた7人はいずれも「通例の戦争犯罪」についても有罪にして計を加えていた。松井岩根については、共同謀議が無罪で、「通例の戦争犯罪」だけで死刑になった。
ようするに東京裁判とは、冤罪で7人もの被告を絞首刑にした暗黒裁判でしかない。

当初被告は28名であったが、1人が不起訴となり、松岡洋右と永野修身の2人は裁判中に死亡した。

  「A級戦犯」7人処刑

昭和26年(1951)9月のサンフランシスコ講和条約締結以降は、「戦犯既決囚」の管理は日本政府に移され、仮釈放が認められた。昭和33年(1958)4月7日、11ヶ国政府は刑の残りを免除する旨を日本政府に通告し、10人が放免された。
禁固刑となった18名のうち、4名が獄死、4名が仮釈放後に死亡、10名が減免により放免された。
刑死した7名、公判中や服役中に獄死した7名は靖国神社に合祀されている。
このように「A級戦犯」は7名が死刑になったわけだが、「B・C級戦犯」でも世界中で1061名が死刑になっている。巣鴨拘置所でもB・C級戦犯52名が処刑された。

戦勝国の戦争犯罪は敗戦国の日本よりもはるかに数多く、またはるかに悪質だったわけだが、戦勝国の戦争犯罪人は裁かれなかったニュルンベルク裁判同様、敗戦国の戦争犯罪だけが裁かれた。しかも、冤罪で死刑にされた者も多かった。

11人の判事のうち、国際法の専門家はインド代表のラダ・ビノード・パール判事だけだった。パール判事は英文1275ページ(日本語訳文1219ページ)に及ぶ意見書を提出した。

東京裁判が終わると、巣鴨プリズンに収監された人たちは全員が釈放された。支那(中華民国)とソ連の代表は釈放すべきでないと異議を唱えた。

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参考文献 歴史年表