支那の歴史において王朝が変わるたびに何度も都市(南京も例外ではない)では大虐殺が行なわれていたが、ここで取り上げるのは昭和12年に日本軍が起こしたというデマについてである。 昭和12年(1937)12月10日、日本軍は国民党政府の根拠地である首都南京を攻略した。13日には陥落し、掃討も16日に終了し、17日に入城式を迎えた。 この南京攻略戦で、日本軍が支那兵や支那の一般市民を不法かつ大量に殺害したと一部の者が騒いでいるのが、いわゆる「南京大虐殺」と呼ばれているものである。 簡単に言うと、これは日本が侵略戦争をしたという支那の国民党と共産党のプロパガンダである。 これが問題となったのは戦後25年以上も経過した1970以降、とくに1980年代からである。当時は国際社会で「大虐殺」があったという認識はまったくなかった。大虐殺があったと言った外国人記者や大学教授らはすべて国民党政府やその宣伝部の顧問や協力者であることが今では判明している。「大虐殺」の証拠写真とされるものはすべてニセ写真や出所不明のもの、修正されたものばかりで証拠になるものは一つもない。 この件で知っておくべきことは以下の4点である。
この「南京大虐殺」が初めて取り上げられたのは東京裁判においてである。アメリカが「空襲」という名の虐殺、広島・長崎での大虐殺でおびただしい数の一般市民を殺戮した自分たちの残虐さを相殺し、日本を残虐な侵略者に仕立て上げるために捏造したのが最初である。 東京大空襲(1944年3月) 広島、長崎原爆投下(1944年8月) また、東京裁判がニュルンベルク裁判と並行して行なわれたために「南京大虐殺」が持ち出されたという点もある。ニュルンベルク裁判はナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を裁いたわけだが、東京裁判でもホロコーストに相当するような出来事がないかと探した。ヨーロッパ全体で600万人のユダヤ人を殺害したホロコーストに対応するような犯罪などありうるわけがない。そこで連合国側は、ティンパリーやフィッチが蒋介石から金をもらって捏造した「南京大虐殺」というデマに飛びついたのだ。 その後、支那共産党はプロパガンダ(宣伝)としてこれを支那侵略のシンボルにした。一般市民の支那共産党に対する不満を外に向ける手段として、また日本からODA援助などを引き出すための外交カードとしてこのデッチ上げの「南京大虐殺」を利用している(そもそもそんなデマを言われて謝ったり、金を払ったりしている日本政府が悪いだけの話なのだが)。また、支那共産党に呼応するマスコミや学者が日本にも多数いる(その筆頭が朝日新聞、毎日新聞、NHKである)。 東京裁判におけるこの「事件」は、原文では「Nanking rape」または「Nanking atrocities」であり、それなら「南京暴行事件」とかと訳されるべきものである。「虐殺」という悪魔化のための名称は東京裁判から23年もあとに、本多勝一という輩が広めたものである。 東京裁判で取り上げられた後は、「南京大虐殺」はデマということで長い間問題にされなかったが、朝日新聞が連載した本多勝一の「中国の旅」で取り上げられた。また、昭和57年の教科書誤報事件の頃から「歴史問題が外交問題化し、1985年には南京に「南京大虐殺記念館」なる馬鹿馬鹿しい施設が支那共産党により開設された。 また、カンボジアでのポル・ポト派によるキリングフィールドで、この大虐殺を北京政府が背後で指導していたことが世界に知られると、支那共産党は突如として日本軍の南京大虐殺説を持ち出した。 この虚構の大虐殺に関する外国の新聞記事・書物などがあるが、すべて支那国民党の宣伝であることが最近わかってきた。当時、南京安全地帯国際委員会から日本大使館への抗議文書をまとめた文書には虐殺といえるものはなく、ほとんど目撃者が明記されていない噂ばかりである。また、便衣兵の処刑については合法的であると書かれている。 当時、反日運動を煽っていたアメリカの新聞は「大虐殺」と書いたが、アメリカ人記者は当時南京におらず、南京に残った外国人から聞いた話を載せているに過ぎない。日本の従軍記者やカメラマンは誰一人目撃していない。 アメリカ人記者に情報を与えた外国人というのは南京大学教授で宣教師のマイナー・ベイツで、この人物は中華民国政府の顧問だった。ベイツは「WHAT WAR MEANS(戦争とは何か)」に匿名で日本軍が4万人虐殺したと書き、中華民国政府から2回勲章をもらっている。南京陥落から半年後に出版された「戦争とは何か」は、日本軍の暴行を最初に告発した本である。この本の編者であるティンパーリというオーストラリア人(当時マンチェスター・ガーディアンの特派員として南京にいた?)は、蒋介石政府の情報活動に協力し、見返りに金銭を受け取っていた。ティンパーリは南京に行っていない?。また、ティンパーリに資料を提供したと思われる金陵大学という南京にある大学の教授・スマイスもまた蒋介石政府から金銭を受け取っている関係にあったことが明らかになった。この書の執筆者の一人がベイツで、もう一人フィッチの妻は蒋介石夫人の親友だった。要するに「戦争とは何か」は支那国民党の宣伝本だったのである。 支那共産党は現在、この「南京大虐殺」なるもので30万人が殺されたとしているが、日本軍が南京を攻略したとき南京市の人口は20万人しかいなかった。実際には攻略直前も直後も人口は変わらなかった。この一件だけで「大虐殺」などなかったことは明らかである。それにもかかわらず支那共産党は30万人が殺された言い張り続けている。 あの悪名高き東京裁判ですら「戦争とは何か」は信憑性がなく、証拠として提出されなかった。目撃証言については、裏づけがあるかと問われたのはマギー牧師だけで、彼は目撃したといっているが当時の日記では目撃していなかった。 マギー牧師は南京における赤十字の総責任者であって、南京市街を最も自由に動けたアメリカ人だった。アメリカ東部の一流大学を出ている教養のある立派な経歴の人物だった。その人物が東京裁判で宣誓口述、神に誓って証言したから、いい加減なことばかり言う支那人たちとは桁違いの信憑性がある。 このマギー牧師は、東京裁判ではまず、大虐殺の噂を延々と並べ立てている。それに対してアメリカ人の弁護人が「ところで、あなた自身の目で見た虐殺は何人ですか」と聞くと、「一人です」と答えた。そして、どういう状況かと問われ、「歩哨(警戒・監視の任に当たる兵)が止まれと言ったのに止まらなかった青年が追いかけられて撃たれた」と答えたのである。歩哨に止まれと命じられて逃げ出したら撃たれるのは戦場では当たり前で、今でもニューヨークなどで警官に止まれと言われて逃げ出したら当然撃たれる。 次にブルックス弁護人(アメリカ人)が「あなたが目撃した強姦の例はあるか」と聞くと、マギー牧師は「一件だけ見た」と答え、状況として「私がある住宅に入ったらそこに日本の兵士と支那人の女がいて、その兵隊は慌てて逃げ出した。銃剣を忘れていったので、私はその銃剣を持って追いかけていった」と述べた。実際に強姦しているところを見たわけでもない。単に話をしていただけか、何もわからない。さらに弁護人から略奪行為について問われたマギー牧師は、「日本の兵隊がアイス・ボックスを担いで空き室から出てくるのを見た」と証言した。 そういった点からも虐殺行為があったなどということはありえない。 デマであるその他の証拠
「これからは敵の首都に入るのである。世界中が注目しているのだから、後ろ指さされるようなことをしてはならない」 また、国民党軍に向かっては「南京防衛の見込みはないのだから、降参してオープン・シティにせよ」と勧告している。しかし、国民党軍はそれを拒否したのだが、蒋介石も南京防衛司令官の唐生智(とうせいち)も敵前逃亡してしまい、南京の防衛軍は大混乱に陥ってしまった。残された兵士たちは敗残兵となるため、日本軍は残敵掃討(正規の戦闘の一部なので敵を殺しても国際上問題とはされない)までやらなければならなかった。 南京城のすぐ東側には中山陵(ちゅうざんりょう)という高台があるが、松井大将は中山陵に大砲を上げることを禁止した。そこに大砲を引き上げてそこから城壁や城内に砲撃すれば有利なのだが、中山陵には孫文の記念碑があるため松井大将は遠慮したのだ。それほどまでに気を使う司令官が「大虐殺」を命令するだろうか。組織的にやらなければ大虐殺など絶対にできない。 松井大将は東京裁判の法廷で「南京大虐殺」なるものは戦後アメリカ軍の放送で初めて知ったと述べている。 現在では、東中野教授や北村稔教授らの綿密な研究によって虐殺など無かったことが証明され、それまで「大虐殺」の証拠とされていた写真もみなデッチ上げられたものであることが判明している。 日本の教科書にも、宮沢談話で近隣諸国条項が制定されると、ほとんどの教科書に「南京大虐殺」が取り上げられ、中には支那共産党が言い張る「30万人の虐殺」まで書く救いようのないほど馬鹿な教科書会社も出現した。 「大虐殺」といわれるにもかかわらずこれがもとで戦後に戦犯として処刑された人数はたったの5人だけである。うち3名は、マスコミの戦意高揚記事による不運な犠牲者だった。 「南京大虐殺」のシンボルとされてしまった向井・野田両少尉は「東京日日新聞(現・毎日新聞)」の「百人斬り」の記事を根拠として処刑された。 「百人斬り」 なぜ支那人はありもしないことが明白な「南京大虐殺」をでっちあげたのか。それは反日運動を愛国運動へのテコとして民力を結集させるためだった。そもそも「大虐殺」は支那有史以来の年中行事で、戦争が起こるたびに西安大虐殺、洛陽、開封、揚州・・・大虐殺が繰り返されてきた。「大虐殺」は支那伝統文化として常識になっており、日本軍の悪逆非道ぶりを宣伝するためには、それ以上に説得力のあるものがなかった。 日本軍による「南京大虐殺」などなかったことは明白だが、日本政府、官僚、政治家がはっきりと反論しないため、今でもあったという噂は世界に広まっており、驚くべきことに日本でも信じている者がいる。それを事実として教えている反日教師がいるのも大きな原因の一つである。 東京裁判で突然「南京大虐殺」が飛び出てきたとき、一時はかなりの日本人が信じてしまった。その大きな原因は「大本営発表」のせいだった。ミッドウェー海戦までの「大本営発表」はかなり正確だったが、それ以降は、日本軍の蒙った痛手は隠し、敵の損害は誇大に伝える嘘ばかりになってしまった。日本人はそうした嘘の発表に騙され続けたため、戦後はその反動で、「南京大虐殺」も政府が隠していたのではないか、と思うようになってしまった。 また、戦後の占領軍によるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムなどの旧日本軍の行動を貶めるプロパガンダに洗脳されたのも大きな原因である。また、公職追放令でアカデミズムやマスコミ界を牛耳るようになった共産主義者によってデマが広められてしまったのも大きかった。 日本の悪口を言えば反日のマスコミが取り上げる。そのため、嘘をしゃべり始める輩が必ず現れる。曽根一夫という男は「自分は南京で市民を虐殺した」という内容の「私記南京虐殺」(彩流社)という本を書いたのだが、こいつは南京戦に参加したことすらない。毎日放送(TBS系列)は三谷翔という男を登場させ、「昭和12年当時、海軍志願兵として揚子江に待機する駆逐艦の上で任務についているとき、双眼鏡で虐殺を目撃した」と証言させたが、こいつも日本軍の南京入場のころはまだ軍人になってないという事実が判明した。 昭和19年(2007)は南京陥落から70年も経っているにもかかわらず、アメリカやカナダでは10本ものインチキな「南京大虐殺」映画が製作され始めた。裏で支那(中華人民共和国共産党)北京政府から推定300億円もの資金が制作費としてアメリカ、カナダのプロダクションに流れたといわれている。アメリカのプロダクションは金さえもらえばどんな映画でも作る。 また、南京では「大虐殺記念館」なるプロパガンダ施設が数十億円を費やして大拡張されている。 支那の反日プロパガンダのシンボルとして、「南京大虐殺」以外に三光作戦、万人坑がある。 三光作戦 万人坑 |
参考文献 | 歴史年表 |