終戦後、GHQは「人権指令」を発しておきながら、個人の私信にまで検閲を行うという基本的人権の侵害を行った。 「原子爆弾は国際法違反の戦争犯罪である」という鳩山一郎の談話を掲載した朝日新聞を48時間の発行停止処分にしたことなど、すさまじい言論弾圧を行ったのだ。 終戦後の昭和20年9月21日、GHQは、日本新聞遵則(日本出版法、プレス・コード)、日本放送遵則(ラジオ・コード)を報道関係者に公表させた。 そこでは表現活動において触れることを厳禁した30項目(30ヶ条)が設けられた。思想言論のコントロールをするために言論統制がしかれた。
占領下にあっては、以上の報道、言論が禁止された(現在でも多くのマスコミが、この束縛から抜け出していない)。要するに、占領軍に都合の悪いことは一切口に出してはならないということ。これが言論の自由を日本にもたらしたと称する占領軍のやったことである。 こうして自由な言論活動が禁止されたわけだが、新聞社などは、「事前検閲は困る。非常に時間がかかって、新聞の生命である迅速な報道ができない。自分たちが責任をもってこの30項目をチェックするから、何とかして事後検閲にしてください」とGHQに頼みにいって、ようやくその願いが聞き届けられた。ということは、昭和27年4月28日に対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効して、ようやく日本が独立を回復するときまで占領体制が続いたわけだが、その間中ずっと、日本の新聞社を含むマスコミは全部マッカーサーの検閲官の手先になっていたのだ。 サンフランシスコ講和条約発効 これにより連合国に不都合な記事はすべて封じ込められ、日本の言論機関には、連合国の政策ないしは意見を表明する機関となり下がってしまった。朝日新聞をはじめマスコミは一生懸命これに違反しないよう自己検閲した。しかも独立回復直後に、実はこうであったのだ、と真相を告白して、読者にそれまでの歪められた報道につき陳謝した新聞社は皆無である。 ここからきたのが、戦後の日本人のメンタリティーの特徴、何事についても「そんなことを言ってもいいんですか」という卑屈さだ。戦前の日本人ンは皇室に対する以外、「そんなことを言ってもいいんですか」というメンタリティーはなかった。これは現在まで続いている。 朝日新聞や毎日新聞は、現在でも占領軍の禁止した事柄について多くをタブー視している。 当時占領軍の検閲には、5000人の日本人が動員された。彼らには給料として、連合国が雇用した職員の中でも最高の日給が支払われた。これら検閲官への給料は、日本政府が負担させられた。昭和22年3月時点での検閲作業従事者は、連合国軍人軍属538人、連合国国籍の民間人554人、日本人5076人、合計6168人だった。 検閲は「闇の仕事」「アメリカの犬」であったが、日本人の検閲官は生活のために従事した。英語に堪能なこれら高学歴の人々は、のちに革新自治体の首長、大会社の役員、ジャーナリスト、学術雑誌の編集長、大学教授などになった。彼らは自らの過去を口を緘して語らない。彼らの子弟や後継者も追随し、今なお日本の言語空間を縛っている。 ポツダム宣言は休戦協定(連合国側は「降伏文書」と名付けた)の調印によって条約上の規定となって、連合国側も日本に対してポツダム宣言第10条に定められた言論の自由を認めなければならず、日本側ももちろん国内において言論の自由を確保しなければいけない。しかし、占領軍はそれに違反してこのひどい検閲を行ったのだ。民主主義を唱えるのであれば、その第一前提である言論の自由を尊重しなければならないのに、日本に民主主義を教えてやるという非常に高慢な姿勢をとったアメリカが、自ら検閲を厳しく行って、日本国民の基本的権利を侵害している。それが日本国民にわかっては困る。だから、密かに上記の第4条において、占領軍の検閲制度への言及を禁止したのだ。 戦前の日本にも検閲はあったが、×や○印で消されているので消したことがわかる。しかし、このポツダム宣言違反の言論統制は、そもそも検閲があったことを知られてはならない。そこが消されたということがわからないように、文章を作り直さなければならなかった。 戦後の日本人のものの考え方を歪めてしまった、あるいはアメリカナイズしてしまった、どこかの外国人並みの考え方をするように洗脳してしまった大きな要因は、無条件降伏説の流布とともに、この占領軍の検閲があげられるのは言うまでもない。 無条件降伏へのすり替え これが戦いに敗れて占領されるという当時の歴史の真実である。戦争に敗れるということは、こういう勝者の論理が支配することなのである。だから、欧州の国々は勝ったり負けたりの繰り返しを続けてきたので、力が弱くて負けたんだから勝者に勝手に言わせておこう、力を回復してから名誉回復すればいいというくらいのしたたかさなのに、日本は敗れて60年も経つのに自虐の心がみなぎっている。 教科書の検閲基準は5つあった。
GHQ内では、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムのための委員会が設置され、あらゆる方面から日本人を洗脳する方法が考えられた。情報をすべて統括し、自分達に都合のいい情報は流すが、都合の悪い情報は禁じた。原爆の残虐な写真の公表は禁止、映画は自由で素晴らしい文明国であるアメリカを描いたものは許可しても、アメリカの暗部である黒人差別などを扱ったものは上映禁止にした。そのため現在の40代以上の人は青春時代にアメリカが憧れの国と思っていた。 戦前の検閲では、○○、××などと伏せ字にされる程度だったが、GHQの検閲は、どこに手を加えたかわからないようにすべて刷り直させるというものだった。当時は紙が貴重だったため、これは大損害になる。それが怖くて、新聞社や出版社はGHQの気に入るように、自主規制を行なった。そうした過剰適応が習い性となり、今日まで脈々と続いている。 |
参考文献 | 歴史年表 |