ニュルンベルク裁判

1945年11月20日〜1946年10月1日に、第二次世界大戦中にドイツによって行われたとされた「戦争犯罪」を裁く「国際軍事裁判」が開かれた。「裁判」という名が付けられてはいるが、これは後の東京裁判と同じように戦勝国による復讐の儀式、茶番劇に過ぎないシロモノだった。
戦勝国が敗戦国を裁くなどということは人類史上まれに見る暴挙であった。戦争は国際法上認められた行為で、国家間の利害が対立して起こる。互いの言い分は当然あり、どちらが正しくどちらが間違っているというものではない。

このニュルンベルク「裁判」において戦争犯罪は以下の3つのカテゴリーに分けられた

 A:平和に対する罪
 B:通例の戦争犯罪
 C:人道に対する罪

これがA級犯罪、B級犯罪、C級犯罪と呼ばれる。「A級戦犯」「B・C級戦犯」のA、B、Cとは違う。

  ニュルンベルク裁判での戦犯
  平和に対する罪
  人道に対する罪

この「裁判」ではナチス、ゲシュタポ(秘密警察)、ナチ親衛隊、保安隊が犯罪団体として指定されていたが、ドイツ国家そのものは対象外だった。ナチスなどの犯罪団体が行なったユダヤ人大虐殺(ホロコースト)などのみをC級犯罪「人道に対する罪」で裁いた。

判決は以下の通り
 死刑:12人
 終身禁固刑:7人
 無罪:3人(犯罪団体の構成員ではなく、ホロコーストに加担していなかったとの理由)

しかし、この12人を除けば、裁判はドイツみずからの手にゆだねられ、結局、戦後約200万人のナチ協力者がリストアップされたにもかかわらず、ほぼ全員が何の罪も与えられず、社会復帰を果たしている。
東京裁判では、連合国の一方的な裁きがまかり通り、ナチス戦犯に対しては、西ドイツによって裁判も処罰も行なわれた。

「復讐の儀式、茶番劇」に過ぎないと言われるのは以下の理由からである。
  • 戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けたものにすぎない
  • 法的には全く根拠を欠いたもので、本当は「裁判」ではなく単なる戦勝国の政治行動である
  • 裁判官がすべてアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出ていて、裁判の中立性を全く欠いていた
  • 第二次欧州大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした
  • ドイツ側の「犯罪(戦勝国の憶測によるものも含む)」を一方的に断罪したが、戦勝国側が犯した犯罪、行為はすべて不問、免責された。それには以下のものが含まれる
    • フランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告(戦争を始めたのが「犯罪」とすれば、ドイツに宣戦布告したフランスとイギリスは犯罪国である)
    • ソ連のポーランド、フィンランド、バルト三国などの侵略(ソ連はドイツに勝るとも劣らない卑劣な侵略をやったが、ソ連は裁かれず、ドイツだけが「平和に対する罪」で告発された)
    • 連合国軍(おもにアメリカとアメリカから爆撃機、爆弾を供与されたイギリス)によるドイツへの無差別爆撃。少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった(ドレスデン虐殺がその代表)
    • ドイツのソ連占領地区で起きたソ連兵による想像を絶する数多くの強姦・暴行・殺人
    • 終戦前後のアメリカ軍によるドイツ人捕虜への虐待による大量死
    • 戦争集結直前の、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓により、膨大な数のドイツの男女、子供がフランスの収容所で死んだ(その数は90万以上といわれる)
    • 連合軍とソ連は戦時国際法に違反したレジスタンス(パルチザン)活動を積極的に支援していた
こうしてみると、ニュルンベルク裁判も東京裁判同様、単なる茶番劇だったことがわかる。

  東京裁判

東京裁判が「東京裁判条例」に基づいて行われたのと同様、ニュルンベルク裁判は8月8日の戦争犯罪会議で勝手に作った「ニュルンベルグ裁判のチャーター」に基づいて実施された。

  戦争犯罪会議
  東京裁判所条例(憲章)


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参考文献 歴史年表