1920年代

反日史観、自虐史観では1920年代はおおよそワシントン会議が終わった後の10年間であって、ワシントン会議の精神と言って、国際協調・国際平和が声高に唱えられた時代であり、そううい国際協調の風潮というものに逆らって日本が1931年に満州事変を起こした、国際協調に反するようなことを日本がやった、だから満州事変は侵略だ、などといっている。

ところが、1920年代は実際には国際協調の時代では全くなかった
確かに掛け声だけは国際協調が高唱されたし、国際平和が言われた。そして日本でも、いわゆる幣原の平和主義外交というものが行われた時代である。

  幣原外交(第一次1924.6〜1927)
  幣原外交(第二次1929.7〜1931)

しかし、実態をみると世界には様々なる矛盾が生まれていた。
1924年にはアメリカで絶対的排日移民法が成立している。日本は民族的に排斥されて、それ以来、日本の移民というものは一人もできなくなってしまった。

  絶対的排日移民法成立

アジアではもっと深刻な問題があった。ワシントン会議の後に、ワシントン会議のときに予想もしなかったような事態がアジアに起きたのである。このように、当時、条約が結ばれたときに予想もしなかったことが起きた場合、その条約を守る義務というものが消失する。これを事情変更の法則という。東京裁判では日本はこれを主張して、九ヶ国条約侵犯に対する反論とした。
排日移民が起きたことに加え、1922年にソビエト連邦(ソ連)が生まれた。ソ連はワシントン会議にも参加しておらず、九ヶ国条約にも縛られていない。一切の国際条約の制約を受けていない。ソ連はアジアで完全に自由に侵略を行うことができたのだ。
しかもこの国は生まれた時から非常に強大な軍事国家として成長していった。また、非常に危険な体質を持った国だった。内外に対してテロ政治をやる。内に対しても恐怖政治をしく外に対して共産主義という恐怖政治を輸出しようとする。そして、周りの国を自分の防御として赤化しようとする。こういう政策をとった国だから、これに対して警戒しようという気持ちが起きてくるのは当然である。こういう予想もしないソ連が生まれて、それがアジアの赤化に乗り出した
また、支那の問題もあった。1911年に辛亥革命が起きたが、その革命が思うようにはかどらず、軍閥同士の争いがやむなく続いた。そして、その指導者の孫文がお人好しで、革命を成功させるために、自分たちよりも遅く革命しながら成功したように見えた、あのソ連の革命方式を輸入しようとした。中華民国の犯した非常に大きな誤りだった。これが国共合作につながる。

  第一次国共合作(1924年)

これ以来、支那は急速に赤化されていく。密かに支那共産党も結成されている。そして、ソ連の勢力というものが支那共産党を通じてばかりでなく、国共合作の結果、国民党にまで入ってくる。こうして支那は混乱に混乱を重ねていく。共産党が国共合作などと言ったって、本当に合作する意思がなく、乗っ取ろうとしていることは明らかだったが、孫文が大変に楽観的な人物であったため甘く見てしまった。
孫文が死去すると、共産党と国民党との争いが表面化してきた。ここに軍の権力を握って台頭してきたのが蒋介石である。孫文の死後、蒋介石が新しい軍閥として登場した。そして、この蒋介石が北伐を開始する。

  北伐(1926[大正15]年)

そしてたくさんの軍閥を討って、究極の目的は北京に陣取っている張作霖を討ち、支那の南北を統一することだった。
この北伐の過程で、様々なるトラブルが外国との間に生ずる。

  イギリス租界奪取事件(1927[昭和2]年1月)
  南京事件(同年3月)
  漢口事件(同年4月)
  済南事件(1928[昭和3]年5月)

北伐が進展していく過程というもの、そしてそれが北に上がっていくにしたがって満州に近づいていく。つまり、この支那の混乱というものが一つ間違うと満州に持ち込まれる。張作霖爆殺事件は、この北伐の最終段階で起こった。

  張作霖爆殺事件(1928[昭和3]年6月)

また、北伐が終わり一応の支那統一が実現した後、国民政府は「革命外交」を打ち出した。

  革命外交

そして、1929年にはホーリー・スムート法から世界大恐慌が起こり、アウタルキー(自給自足経済)ができる国(アメリカ、フランス、オランダ、ソ連)は経済ブロックをつくり出す。

  ホーリー・スムート法
  世界大恐慌
  ブロック経済化

日本はアメリカの経済圏には入っていけないし、ソ連はソ連で、イギリスはイギリスで経済圏をつくって高い関税障壁をつくる。そういう状況なので、日本はどうしてもその関心が満蒙に向いていくのは仕方のないことだった。そして、白人世界への移民も排除されるとなれば、年々百万増える人口を処理する場所として、やはり満蒙の新天地ということになっていく。日本人が満州に関心を向けていくのは、このような四囲の国際情勢がしらしめたのだ。
満州事変の原因は、これ以外にもたくさんある。
満鉄が様々な妨害を受けて危機に陥ったこと、それから満州にいる朝鮮人に対する支那側の迫害だとか、「対華21ヶ条」の要求で日本は南満州に農業や商業を営むために土地を取得したり、支那人と共同で事業を経営したり、旅行したり生活したりする、そういう権益を得たのだが、それがほとんど空文化していた。
1920年代はこのように国際協調の掛け声とは裏腹な事態が世界各地で進行していたのだ。これを見なければ満州事変がどうして起きたのかということはわからない。

  満州事変(1931年)
  満州事変までの満州の状況


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参考文献 歴史年表