支那事変のことをこういう連中が日本にいて、支那でもそう呼ぶ者がいるらしい。 この「日中八年戦争」といわれるものの中で、実質的に主力同士が戦ったのは、昭和37年(1937)7月の盧溝橋事件から1938年10月の武漢三鎮陥落までの一年あまりである。それ以降の「日中戦争」は本質的に汪兆名の南京政府、蒋介石の重慶政府、毛沢東の延安政府による三つ巴の内戦にすぎなかった。そこに日本・アメリカ・ソ連が加担介入したから表面的には大戦争に見える。 この戦争の構図は日本が舞台を降りた後も引き継がれる。米ソの加担による国共内戦再開、朝鮮戦争、ベトナム戦争である。 この三つ巴の内戦で著しく拡張したのが共産党だった。1936年に延安までほうほうの体で落ち延びた彼らは、「日中戦争」終結の1945年には、19の根拠地、百万平方キロの面積と、百万を上回る兵力を獲得し、およそ1億の人口を支配するまでに至った。南京政府軍には80万以上の重慶軍が投降していたが、同政府は日本の敗戦で崩壊ししてしまった。そのような情勢下で起こったのが、蒋介石軍と共産軍の一騎打ち、国共内戦であった。 国共内戦再開(1945年10月) 「日中十五年戦争」 支那の内戦は、すでにアヘン戦争より以前の18世紀末の白蓮教徒の乱から太平天国の乱、回教徒などの宗教的・民族的な反乱など、間断なく発生していた。ことに辛亥革命による清帝国の崩壊と中華民国の成立で、支那は本格的な多政府戦乱国家の時代に入った。そして、軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦、さらには中華人民共和国成立後の文化大革命とその収拾に至るまで、戦乱は続いていた。 このような戦乱、飢饉の多政府乱立の支那に、列強が介入した(巻き込まれた)というのが支那事変だった。外国を利用した支那の戦争は、大東亜戦争が終結し、中華人民共和国が成立した後も続いた。 |
参考文献 | 歴史年表 |