東京裁判が茶番劇の理由

東京裁判を一言で簡単に説明するとすれば「戦勝国による復讐の儀式、茶番劇、インチキ劇、リンチ」あたりの表現が最適で、詳しく学ぶ時間のない人はそう覚えておけば世間で赤っ恥をかくことはない。
「東京裁判」が「裁判」とは言えない茶番劇にすぎなかった理由は以下の通り(それぞれの理由の詳細をさらに下に列挙)。
  1. 事後法
  2. 戦争そのものの裁判
  3. 指導者個人の断罪
  4. 戦勝国の戦争犯罪不問
  5. 判事の選定
  6. 有条件降伏の条件無視
  7. 侵略戦争の定義
  8. 共同謀議の捏造
  9. 決着済み裁判の断罪
  10. その他の個別問題

1.事後法
そもそも裁くための根拠となる法律がなかった。英語の正式名称がThe International Military Tribunal for the Far EeatでありInternationalなので国際法が根拠となっている裁判だと思われがちだが、まったく無関係である。この「裁判」の根拠となったのは、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの参謀部が中心となり、そこに検事などが加わって作り上げた東京裁判所条例(憲章)なる代物であった。

裁かれる事案が起こった時点で存在した法律に基づいて裁判が行なわれたわけではないのである。これは「法は遡らない」という大原則に違反している事後法であり、国際法上違法である。

清瀬一郎弁護士(東条英機被告担当)は裁判冒頭、原告側を代表して「当裁判所の管轄に関する動議」という陳述をした。清瀬弁護人は、世界の文明国が理解している戦争犯罪人の定義とは、@戦闘者の不法行為、A非戦闘者の戦闘行為、B掠奪行為、Cスパイ行為 - のおおむね4つであり、ポツダム宣言受諾当時、戦争犯罪という概念の中には、「平和に対する罪」「戦争を計画・準備・実行した罪」といった類の罪は、国際法にも先進国の法律にもなかったと訴え、裁判の管轄権(jurisdiction)を問題にした。裁判所がいくら設置されても、そもそもポツダム宣言の時点で国際法にない戦争犯罪を裁くことなどできるはずもない。スミス弁護人も管轄については速やかにこの場で明らかにできなくてはならず、それができないのであれば、ただちに控訴棄却すべきであると訴えたが、そうした抗弁は一切無視されて裁判は進められた。

2.戦争そのものの裁判
戦争を始めること、それを遂行することは犯罪ではない。ポツダム宣言が出された時点であろうが、現在であろうが、国際法でも、いかなる文明国の法律でも、それは犯罪とはされていない。にもかかわらず、「東京裁判」ではそれが裁かれた。
「東京裁判」では、清瀬一郎弁護人がそのインチキを突いたが、アメリカの弁護人も、戦争を犯罪とする学説はどこにもないと指摘した。
戦争では人殺しをしても罪は問われないことになっている。宣戦布告をした途端に通常の倫理は通用しなくなり、戦争のルールが適用されることになる。そのために戦時国際法がわざわざ定められている。この国際法に則っている限り、戦争は犯罪ではない。国家は開戦と交戦の権利を持っており、その行使は国際法的に合法なのである。
これに対しては、マッカーサーの右腕とも言われたウイロビー将軍までもが「こんなことが犯罪なら、子供を軍人にすることはできない」と言って東京裁判を批判した。
清瀬弁護人は、戦争を始めるかどうかを検討したり、その準備をすることは犯罪ではないのに、それを裁く権利は誰にもないのに、もしあるというなら裁判管轄権はどこから及ぶのか、何をもって裁くのかとウェッブを問い詰めたが、ウェッブは後で答えるとほざいて裁判を進めてしまった。それに答えたのは判決の際で、「東京裁判の管轄権は東京裁判条例(憲章)にある」というまったく答えになっていない馬鹿らしいものだった。

大東亜戦争後には数多くの戦争があったが、責任者が裁かれた例はない。もしも戦争が犯罪だったら、イラク戦争を始めたブッシュは間違いなく犯罪者であろう。

3.指導者個人の断罪
「戦争」は国家行為であり、個人の行為ではない。従来の国際法にはなかったことである。

4.戦勝国の戦争犯罪不問
戦争犯罪は日本よりも戦勝国のほうがはるかに多かったし、はるかに悪質だったわけだが、戦勝国の犯罪は一切問われなかった。裁判長のウェッブ(オーストラリア人)は「東京裁判は連合国を裁くのが目的ではない」とほざき、日本弁護側の正当な主張を却下した。

  各国の軍の虐待度


5.判事の選定
11人の判事がすべて戦勝国側の人間だった(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ソ連、支那、オーストラリア、カナダ、インド、フィリピン、ニュージーランドの11ヶ国[メンバーの詳細]。フィリピンはアメリカの、インドはイギリスの植民地。主席検事はキーナン)。しかも、国際法の専門家はインドのパール判事だけというあきれた構成だった。
常識的に考えれば裁判は中立でなくてはならないのだから、もし戦勝国から判事が出るのであれば、それと同数の判事を敗戦国側からも出さなくてはいけない。そうでないとすれば、裁判官全員を中立国から出すべきである。しかし、その常識がなされなかった。
これでは裁判官と検事がグルになった茶番にすぎない。
ウェッブ(オーストラリア)とジャラニ(フィリピン)は法廷に持ち出された事件に、前もって関与していたので判事としては不適格である。裁判長のウェッブはニューギニアにおける日本兵の不法行為を調査して、それをオーストラリア政府に報告した者であり、これはウェッブがすでに検事的な立場で日本軍とかかわりを持ったことを意味する。ジャラニはバターン半島で日本軍の捕虜になった人物である。被告に恨みを持つような人間が裁判官の側にいたら、公正な裁判など望みようがない。
ソ連のザリヤノフとフランスのベルナールらは協定用語(法廷での公用語)である英語と日本語がともに理解できなかったので不適格である。支那(中華民国)の梅汝敖にいたっては本来裁判官ではなく論外。
国際法の学位を持つ判事はパール博士ただひとりというでたらめぶりだった。

6.有条件降伏の条件無視
日本はポツダム宣言の条件にしたがって降伏した「有条件降伏」なので、同宣言10条の「我々の国の捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人」だけが対象になる。それゆえ、ポツダム宣言の後に作られた「平和に対する罪」、「人道に対する罪」という「戦争犯罪」は日本には適用できないものだが、その適用できない罪で裁いた。

清瀬弁護士は、裁判の冒頭、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」で裁くというのなら、その管轄権(裁判を行なう権限がどこから来たか、誰がどうして裁判ができるのか、という根拠の所在のこと)はどこにあるのか、と異議申し立てをした。これに対して裁判長のウェッブは答えようがなかった。根拠などどこにもなかったからだ。この異議申し立てによって裁判は閉廷し、数日間休廷となってしまった。その間に裁判官による会議が行なわれ、再び開廷となったときにウェッブは、「弁護側の異議はこれを却下する。却下の理由は後に説明する」という馬鹿げた答えだった。裁判の管轄権について何も答えを出さないまま裁判を進行させるというのである。管轄権を明らかにできないのはリンチと同じである。管轄権がない裁判は裁判ではない。だから裁判の進行の途中でも、アメリカ人弁護人のデービッド・スミスは「管轄権も明らかにできない裁判は進行してはいけない」と抗議し、裁判を白紙に戻すよう求めた。しかし、ウェッブはこの訴えも却下してしまった。要するに裁判になっていないのであった。

7.侵略戦争の定義
事後法として新たに作られた「平和に対する罪」とは、日本が「侵略戦争」を起こしたのでそれを罰するというもの。しかし、「侵略戦争」の定義は、パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)で示されたとおり曖昧というかいい加減で、自衛か侵略かは当事国が決定するというものである。ところが東京裁判では日本の戦争を「侵略戦争」であると、当事国ではない連合国が勝手に決めている。もちろん日本は自衛戦争と主張した。

8.共同謀議の捏造
「平和に対する罪」に関しては、日本が共同謀議により侵略戦争を計画・実行した断罪する。しかし、被告が一堂に会したことなど一度もない。共同謀議などなかったことは明白な事実である。昭和3年以降、内閣は頻繁に変わり、一貫した政策も戦略もなかった。

9.決着済み裁判の断罪
満州事変支那事変大東亜戦争を一貫した戦争として、過去にすでに決着した事件(張鼓峰事件ノモンハン事件)まで、そのときの条約・協定などを無視して断罪した。

法廷は、日本の侵略戦争の開始年月日を昭和3年(1928年)1月1日と定めた。そもそもポツダム宣言は「今次の戦争」を終結するために受諾したものであり、裁判の対象は「今次の戦争」つまり「大東亜戦争」である。ところが、ふざけたことに法廷はそのはるか手前の昭和3年にまで遡って戦争の始まりとした。その理由は1928年にパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)が締結されたからである。日本もこの条約に調印している。
つまり、「日本は不戦条約に違反した」と言いたいがために、昭和3年まで遡って戦争開始日を定め日本を裁こうとしたわけである。明らかにポツダム宣言にある「今次の戦争(大東亜戦争)」の範囲を超えている。
パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)では、当事者が自衛戦争かどうかを決めるとされているので、日本は自衛戦争と主張しているので、侵略戦争などしていないことになる。だから、アメリカの弁護人が「現在トルーマンがソ連に対抗するために軍備をやっているが、それと同じことを日本がやったのが、共同謀議になるのはおかしいではないか」と言ったら、裁判長のウェッブは「あなたは自分の国に対する愛国心がないのか」と間抜けなことを言う一幕もあった。

昭和6年(1931)に起こった満州事変はどう見てもポツダム宣言の「今次の戦争」に当たらない。しかし、そんなことを無視して裁判は進められた。日本で大東亜戦争を「15年戦争」などと言っている連中は、満洲事変(昭和6年)から大東亜戦争終結(昭和20年)までをひとつの戦争と見なした東京裁判の検事側に無批判に同調した輩である。
当時の国際連盟が調べ、リットン報告書で「満洲事変は日本の侵略といえるような簡単なことではない」と結論付けたことまでもを、東京裁判では「侵略だ」と決め付けようとしたわけだ。戦勝国はそれを立証するために満州国皇帝溥儀を裁判に引っ張り出してきた。溥儀は「自分は満州国皇帝になんかなりたくはなかったが、日本人にいやおうなしに引っ張り出された」という趣旨に発言をしているが、これは本心でない。裁判になる前に、ソ連に捕らえられ、反日の虚偽の証言をするよう脅迫されていたのである。生命を脅かされている状況の下で検事側に都合のよい証言をさせられたわけだ。偽証をさせてまで満洲事変を侵略戦争と決め付けようとしたのは、そうしなければ、東京裁判で裁くべき問題がほとんどなくなってしまうためであった。

10.その他の個別問題
その他の個別問題はきりがないほどある。支那事変勃発の発端となった盧溝橋事件など、深く追求すると支那共産党が暗躍していたことが明るみに出てしまうので曖昧なままにされ、その謀略に関する資料が握りつぶされた。支那の判事はあきれたことに東京裁判後に国民党から敵である共産党に移っている。

ただし、検事と弁護人がいたことは救いだった。これにより公正の歴史を調べる人間にとって大変貴重な資料が残ることになったからである。検事側と弁護側が激しい論争を行い、もしもこの「裁判」がなかったならば知られなかったであろう当時の日本の歴史と、そこに動く人間たちの行動、あるいは対応する諸外国の動きを実に明快に描き出してくれたのだ。

  東京裁判の判決


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参考文献 歴史年表