日米関係詳細年表(1941年)

日付 アメリカ 日本 日米以外の国
日米関係詳細年表(1940年)
1月10日 武器貸与法がアメリカ議会に提出される。(イギリスを最も有効に防衛することが米国を最も有効に防衛することになる、という発想が武器貸与法の出発点だった)
1月29日 米英参謀会議開始(3/29まで)
2月中旬 野村吉三郎駐米大使に着任。(松岡外相は行き詰った日米関係を打開するため、ルーズベルトと多年知己の関係にある野村吉三郎海軍大将を起用)
3月11日 武器貸与法成立(アメリカ兵器の対英無償供与が可能になった上、あらゆる軍需品、食料その他が反枢軸国側に無償供与されることになった)
こうしてアメリカは支那事変に対しても欧州戦争に対してもなんら調停や和平解決の努力を試みることなく、ただ枢軸側を非難し、他方、反枢軸側に対しては軍事経済両面の支援を増強することによって、戦火の継続拡大に貢献した。 このように悪化した日米関係を好転させ、支那事変解決を促進する目的で、昭和16年春から日米交渉が開始された。
3月12日 松岡洋右外相訪欧へ出発
4月13日 ソ連と日ソ中立条約締結
「日米諒解案」ハルに提案
ハル「四原則(→「日米諒解案」)」なるものを手交。
「日米諒解案」返電。
5月31日 「日米諒解案」アメリカ側修正案提示。
6月17日 日蘭会商終結(石油等買い付け交渉不成功に終わる)
6月?日 オランダとともに日本資産を凍結(ABCD包囲陣が構築されつつある)
6月21日 「日米諒解案」アメリカ側再修正案提示。
6月22日 独ソ戦勃発
7月2日 独ソ戦不介入の方針決定。
独ソ戦への方策が決まると、6/21アメリカ側修正案の検討に入ったが、ここにおいて日米双方の主張の対立は俄然明確になってきた。さらにこのアメリカ案には松岡を安に非難するオーラル・ステートメント(口述書)が付随しており、これがまた松岡を激怒させることになった。
この頃、アメリカはすでに日本の外交暗号の解読に成功しており、対米交渉に関する日本の電報は傍受解読されていた。アメリカ側には日本政府内部の重要情報が筒抜けになっていた。
7月16日 松岡洋右外相を更迭するために近衛内閣は総辞職。(松岡枢軸外交の終焉)
アメリカ側が松岡を非難したため、日本はアメリカの意に沿った屈辱的な譲歩をした。そして、日米衝突回避を主張してきた豊田貞次郎海軍大将が外相に就任する。
7月21日 南部仏印進駐について日本と仏印合意
7月25日 在米日本資産凍結を声明
対抗措置として米国資産凍結を表明
7月26日 イギリス:米国に追随して在英日本資産凍結を発表。同時に、日英通商航海条約、日印通商条約、日緬(ビルマ)通商条約の破棄を通告。
7月27日 日本軍南部仏印進駐開始
同日 ニュージーランド:対日通商関係の破棄を通告
7月28日 蘭印:日本資産凍結令、日本との金融協定、日蘭石油民間協定の停止を公表
8月1日 石油禁輸大東亜戦争の主因)
8月8日 日米首脳会談提案(悪化した日米関係改善のため)
8月9日 大西洋会談(〜14日)(アメリカ、イギリスに戦争協力を約束)
8月17日 大西洋会談から戻ったルーズベルトは2文書を野村大使に手交(8月17日通告
8月18日 豊田外相、グルー駐日米大使に首脳会談への協力を要請。グルー大使、ハルに提案を受けるよう進言(8/18グルー覚書)。
8月28日 「8月17日通告」への回答をルーズベルトに手交。(8月28日回答
9月3日 ルーズベルト、近衛メッセージへの回答とオーラル・ステートメントを野村大使に手交(9月3日回答
アメリカ側にとって交渉はすでに終わったも同然であった。
連絡会議帝国国策遂行要領承認。(10月中旬までに対米交渉解決の目処がつかない場合は、対米宣戦に踏み切ることを決定)。
9月6日 9月6日御前会議。「帝国国策遂行要領」採択。この会議での永野総長の発言(当時の日本首脳の心境を如実に物語っている)
近衛首相、グルー駐日大使を通じて、日米首脳会談の実現を再度依頼。
グルー大使の「外交官生活で最も重大な電報」 日本の誠意を信じて首脳会談を実現する必要を切言した(しかしアメリカ政府は無視)
9月30日 クレーギー英大使、豊田外相の日米首脳会談への協力の求めに、イギリス本国政府に重大性を進言(イギリス政府は無視)
10月2日 10月2日アメリカ側覚書、ハルから野村大使に交付。ハル「四原則」を掲げ、日本の支那に「不確定期間」駐兵しようとしていると非難、さらに三国同盟に対する立場をいっそう明確にするよう要求。首脳会談については相変わらず「根本的問題」についての予備会談が必要とぬかしただけ。
10月12日 荻外荘会談
10月18日 近衛内閣総辞職
10月18日 東條内閣成立。(9月6日の御前会議での決定[10月中旬までに対米交渉解決の目処ない場合は対米宣戦]を破棄し国策を決定するようにという天皇のお言葉。この後、東条は「東条の変節」と言われるほどの非戦論者となる)
11月1日
〜2日
連絡会議(帝国国策遂行要領(11/5)及びそれに基づく日本最後の対米交渉打開案[甲案乙案]を決定する)
11月5日 御前会議(帝国国策遂行要領(11/5)、甲案・乙案を決定)
11月5日 野村大使の対米交渉に協力させる目的で、来栖三郎前駐独大使を派米した。ハルは歪みきった先入観で新任の来栖大使を迎えた。
11月7日 甲案を提出(野村大使がハルと会見し、日本の国情は6か月の交渉の後しびれを切らし、事態重大である旨を告げて提出した)
示された甲案に対し、ハルはすでに暗号電報解読によって内容を知っていながら、素知らぬ顔で甲案を”熟読”したが、支那撤兵については撤兵と駐兵の割合をたずねただけだった。野村は「9割くらいは撤兵」と答えたが、それ以上ハルは甲案には大した関心を示さなかった甲案による交渉は不調に終わった。
11月10日 東郷外相は交渉を促進するため、グルー駐日大使に甲案の趣旨を説明し、交渉の急速妥結方を強く申し入れた。
11月12日 クレーギー駐日イギリス大使にも日米交渉への妥協を要請した。クレーギーは早速本国に報告したが、本国からは交渉はアメリカに任せてあるとの回答で、クレーギーをいたく失望させた。もっとも、2日前の11月10日、チャーチルが「アメリカが対日戦争に巻き込まれた場合は、イギリスは1時間以内に対日宣戦を布告するであろう」と演説をしていたことを考えれば、日米交渉に対してイギリスがもはや何の関心も有していないことは明らかだった。
11月15日? 御前会議、(11/30まで外交交渉を続けることを決定)
11月20日 乙案を提出
ハルは来栖大使の「乙案」説明に対し、ハルは援蒋打ち切りの困難を述べ、三国同盟に対する従来の主張を繰り返した。アメリカは大西洋会談でもう参戦を決定していたため何の興味もなかった。ともかく、このぎりぎりの暫定協定案である乙案に対して国務省は「一顧の価値もない」との判断を下し、これを黙殺することにしたのであった。乙案への回答はやがてハル・ノートという形で返ってくることになる。
11月21日 三国同盟死文化申し入れ(来栖大使はハルに単独会見し、三国同盟は即刻一片の死文と化す申し入れを行ったが、アメリカは応ぜず)
11月22日 暫定協定案まとめる
11月25日 戦争関係閣僚会議(スチムソンが日記から重大な事実が判明)
11月26日 ハル・ノートを日本側に手交
同日 ハル・ノート受領後の連絡会議が開かれる
12月1日 12月1日御前会議、ハル・ノートを受け、対米開戦決定
12月8日 マレー半島上陸
12月8日 真珠湾攻撃(日米開戦)

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表